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  喜ビ難キハ罪障ナリ

2005/9



信心とは「信じる心」と書き、心のことなので、本来は見ることの出来ないもの、計りようのないものです。では、その信仰心とは個人の心の中の感性の問題なのか、観念や考え方の話なのでしょうか。いや、そんなに難しい話ではありません。

 ご信心の強さや弱さ、信仰心の篤(あつ)さや浅さは、心のこととはいえ、顔の表情、言葉の出し方、身体の動かし方、お給仕やご奉公の仕方に表れています。
開導聖人は御教歌に、
信心のよわさつよさはことの葉に
  あらは(わ)れ所作(しょさ)に見ゆるもの也
とお示しです。ご信心は一人心の内側に置いておける、置いておくものではありません。自分の人生の行動に表れ、言動こそが信心になってゆきます。こうした信心観を教えていただいてうるからこそ、社会生活・学校生活・家庭生活が修行の場だといっているのです。

 しかし、所作振舞(しょさふるまい)が大事ということも、難しく考えていると本意から外れてしまいます。単純に、小笠原流や茶道などの行儀作法の話をしているのではありません。言葉使いや礼儀作法も大事ですが、もっとシンプルに、大切な改良のポイントがあると教えて頂きます。

 十五世日晨上人は、先の御教歌から、ご信心前を計る一つの尺度を示されています。それは「喜び」「随喜(ずいき)」ということです。表情や言葉や所作振舞に喜びが表れているか、いないか、という点です。同じことをするにしても、喜んでしているのか、そうでないのかでその人のご信心前、信心が強いか弱いかが分かる、と。この「喜び」の有無を、自分の生活やご奉公に当てて省みてみる。食事をする、食事を作る、会社に行く、仕事をする、お参詣する、お給仕する、法城護持をする、その生活の場面場面に、喜びがあるか、ないか。

「自ラ喜ビ難キ。コレ罪障ナリ」と御指南され、「喜んで聞かざるは仇(あだ)」と開導聖人はお示しです。つまり、喜びが無いということは、仏道修行をしている仲間のようで、実は反対側にいる「敵」のようなものだというのです。喜んで聞けなくなっているのは、自分の心の奥底にある「罪障」が邪魔をしているからなのです。罪障に負けて魔や慢心が前面に出て、何事にも喜んで取り組もうとする気持ちを失わせ、実際に顔の表情や言葉や所作振舞から「喜び」を失わせてしまうのです。感謝の気持ちも、尊敬の念も失わせてしまい、出てくるのは愚痴や不平や不満などになります。慣れてくるとご奉公はそつなく出来るようになりますが、そこから再び罪障の虫が動き出し、喜びを失わせようとするのです。

 ついお看経が上がらなくなる。御法門中に居眠りをしてしまう。喜んでしていればあり得ないこと。

 御題目のバイブレーションが、御本尊に届き、周囲に響き渡る。一遍一遍の御題目口唱が、罪障を消滅し、良い縁を導き悪縁を退け、諸天のお護りを強め、妙不可思議の御利益に直結している。それが「ご信心」ですから、御題目口唱が嬉しくて仕方がないはずです。

 御法門を聴聞させていただく。もし御法門が無くなったとしたら、一体どこで、誰から御法門を頂戴出来るでしょう。私たちは御法門聴聞できる環境にも慣れています。しかし、この尊さは計り知れない。御法門とは、勝手な推論や見解を講演しているのではありません。考えてみれば、御法門こそ御仏のお言葉であり、教えであり、三祖一轍(さんそいってつ)の信心の筋です。その尊さを感じれば、眼を輝かせて御法門に耳を傾けるはずです。

「自ら喜び難き。これ罪障なり。居眠り、退屈、懈怠(けたい)等、みな罪障なり」「弘法(ぐほう)の為に身を動かし、心を用ふる事喜ばれざる者、これ未除者(みじょしゃ)也」
と続けてお示しです。「未除者」とは、「未だ障り除かれざる者」という意味で、前述したように、「まだ罪障が取り除かれておらず、ご信心の邪魔をするものがある者」「罪障に負けてしまっている者」 という意味です。如何でしょうか。

 喜んでするのが信心というものでも、これは簡単ではありません。第一、最初は良いですけれども、少し慣れてくると、ウブな喜びの心はあっという間に薄れていく。しかも、周りから大切にされたり、優しい言葉をかけてもらっている間だけは喜んでやっているけれど、何か都合の悪い事が起ころうものなら、すぐに愚痴や不平が口から出てきてしまうもの。そんな時はみんなご信心を忘れてしまって、誰も喜べなくなってしまう。

 しかし、ここが間違いなのです。「末法は難(なん)甚(はなはだ)し」とあるとおり、私たちの人生にも、末法のご信心修行の中にも、困難なことが起きます。その困難の時こそ、ご信心の本領発揮の時、ご信心前の強さ、弱さの見える時です。その困難な時に、「喜びの信心」が出来るか否か。ご信心前が試されるのです。

 お祖師さまは、御生涯中最大の法難となった九月十二日の龍ノ口の御法難に際して、誰もが絶望し、後悔の念を口走りたくなる所を、
「これほどの悦びをばわらへかし」と仰られました。何と尊いお手本をお示し下されているのでしょう。同時に、その確固たるご信心が、大難を大御利益へと変えるのだと教えてくださいました。逆境でも、どんな時も喜びを捨てないのです。

「この障りを除きて、喜んで説き、喜んで聞き、喜んで口唱読誦する者、喜んで法筵(ほうえん)を設け、喜んで供養し、喜んで人を誘引(ゆういん)して参詣し喜んで供養を受けする者、法華経の持者、弟子檀那の菩薩なり」
と続けて御指南下さっております。罪障に負けず、罪障を消滅して、私たちは喜んで語り合いましょう。話術などテクニックの話ではなく、私たちは喜んで話をするのです。難しい顔をして、あら探しをするような話は、どんなに正当なことでも誰も聞いてくれない。そして、喜んで聞く。喜んで御題目を唱え、喜んで御講の席主となり、喜んで御供養をさせていただくのです。また、御会式などの将引ご奉公も心から喜んでさせてもらうのです。もちろん、みんなで喜んで御参詣、喜んで御供養も頂戴しましょう。そうした喜びに溢れて生活する人、喜びを絶やさずにご信心ご奉公する人が、法華経の真の護持者、御弟子ご信者の中で菩薩に値する人だと教えて頂くのです。

 さあ、日頃の自分の生活を振り返り、自分のご奉公ぶりを省みて、「喜び」があるか、なかったのか。感謝があったか、なかったのか。ご信心改良とは、このことです。よく反省して、喜び溢れる表情や言動に、改良させて頂きましょう。



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