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  日本人の忘れもの

2005/11



 気分が悪くなるかも知れませんが、眼を逸らすわけにはいかない二つの資料があります。

 読売新聞が五年に一度行う世論調査が9月1日に発表されました。「宗教・本社全国世論調査」には、世界的に見て特異な日本人の宗教意識や行動が鮮明に映し出されています。「信じない。でも神社や寺へ」と題された誌面には「宗教を信じている人は2割台。しかし8割の人が神社や寺には行く」という調査結果が出ています。特に、信仰は持たず、檀家意識や世間体、付き合いの参詣や参拝をしているのが日本人だというのです。

 コメントを寄せた養老孟司氏は、「日本人は世間に合わせようとするから特定の宗教を信じていると言いづらい。多くの人々が墓参りや初詣へ行くのは、それが世間で誰もが行う共通の宗教行事だからだろう」「日本人にとっては世間こそが思想だ」と述べていました。

 宗教学者の石井教授は「宗教は、どの国でも精神文化の中核に位置する。それに敬意を払わない社会は怖く、薄ら寒い気がする」「米国では、同時テロによる精神的な空白を教会で埋めたが、日本人は大規模テロがあった場合その痛みをどうやって癒すのか」と同じく懸念と問題提起を寄せていました。

 現世での利益は欲しい。しかし、特定の信仰は持たない。世間様がしているから、神社や寺や墓参りには行く。付き合い程度の感覚で、生活と宗教・信仰を、全く別個のものとして生き、そして死ぬ、と。しかも、それが最先端の生き方、束縛の無い自由な生き方だと思い込んでいるのですから、この国が豊かでありながら同時に不幸でもあると言われるのでしょう。

 2004年、各国の最新調査を基に「自殺率の国際比較」という統計結果が出されました。何と、日本は10位に位置していました。

 先進国と呼ばれる国々の中では最上位。日本より上位には過去の共産国が列を為し、驚くべき事に最下位に並ぶのはテロ等に怯える中東諸国のイランやシリアやヨルダン、アジアの中ではフィリピンやタイが下位層に位置しています。逆にフィンランドやスウェーデンなど、充実した社会保障を持つといわれる国が、十三位と二十九位と上位に位置していました。

 独特の豊かな精神文化を持つ国。日本は、明治維新から現代に至る近代史の中でも特異な存在として、誇りある発展を遂げてきた筈です。戦争という辛酸の中から、急速に復興と発展を遂げたのは、米国の占領政策だけではなく、日本人に備わる国民性の素晴らしさなのだと信じています。しかし、同時に、今や多くの自殺者を生み出す不幸な国が日本だというのです。

 自ら命を絶つことで名誉を守り、責任を取るという倫理規範や文化がある、サムライ・スピリットが原因だという意見もありますが、果たしてそうでしょうか。各国の経済事情や社会保障制度では語れない根本的なところに理由があるのではないでしょうか。

 人間とは壊れやすいものです。本来、脆(もろ)く、傷つきやすく、弱い。それでいて、哀れなほどに強欲で、傲慢(ごうまん)です。身体の健康を維持する以上に心の健康を保つことは困難なことです。しかも、御仏(みほとけ)が第五の五百歳である滅後二千年以降に続く末法を「闘諍堅固(とうじょうけんご)」とお説きになられているように、世は争いごとや競争が激化し、戦いながら生きてゆかなければなりません。

 だからこそ、本来人間は生活の中に宗教や信仰が欠かせません。知識、感性の話では解決できない、人間としてバランスを保つために、心の代謝を保ち心身の健康を保つために、「信」のある生活が必要なはずなのです。

 世界規模の自殺率調査。それは、生活と宗教を一つと捉えて生きる人々と、全く切り離してしまった人々との違いだとも考えられます。信仰よりもイデオロギーに重きを置いた国々と経済力による豊かさに重きを置き、信仰を疎(おろそ)かにしてきた国の姿なのかも知れません。心の代謝は簡単ではないのです。

 生きてゆくことに一縷(いちる)の希望も見出せないこともあるでしょう。昨今の社会情勢は本当に弱肉強食の度を増しつつ、上辺だけの安心や豊かさ、束の間の快楽を与えることだけに長けた、恐ろしい社会が到来していると感じます。

 開講から一五〇年目を迎える今。豊かでありながら不幸なこの国に、信仰のある生活、生活の中の信仰の尊さを伝えたいと強く思います。真実の仏法が流布し、お祖師さまが生きた日本で、今や八割の人が個人にとっての最大の不幸である「信」の無い生活を送っているという状態に憂いを抱いているだけでは、開講の本義から外れます。薄い氷の上に積み上げられた社会です。薄氷の上で生きているのと同じなのですから、不測の事態や困難な出来事に対処できず、バランスを失い、冷たい氷の下に堕ちていくのも避けられません。

 豊かな社会の中で、信仰がなくても生きていけると考えている人が大勢でしょう。しかし、答えは全く逆です。異彩を放つ中西進氏の名著「日本人の忘れもの」には、グローバル化の流れの中で日本人が忘れた精神や言葉や慣習などが、諸外国の事例を引きながら綴られています。読み進めれば、日本の豊かな文化に胸躍る思いがします。

 しかし、現代に生きる日本人を見てみれば、日本人の忘れものの最たるものとは、信仰のある生活だと気づくのです。正しい宗教を正しく信じる生き方が、どれだけ心を豊かにし、心の代謝を促進し、厳しい社会を歩む人々の険しい道を照らしてゆくか。

 迷いを深めるだけの宗教団体や、使命を忘れた宗教者は弾劾されて然るべきでしょう。混迷の世情、惰眠を貪る僧侶を痛烈に批判して、本門佛立講は開講されたのです。同時に、佛立宗に所属していても、信仰の無い人は「ごもく信者」と呼ばれます。素直なご信心、信心の増進や一分の改良の望めないとなれば、開講一五〇年を迎えるに値しません。日本人の忘れものに気づかず、周辺をウロウロとしていたのでは勿体ありません。

 海外のご信者方との出会いは、日本人の忘れものに気づく絶好の機会です。付き合い程度の感覚で寺社に参り、信仰と生活を別個にして生きている、アンバランスな私たちに、秋空のように高く晴れやかな心で生きる方法を、海外のご信者のお話から感じて頂きたいのです。ご信心から得た澄んだ心や生活を、彼らは語ってくれるでしょう。それは日本人の忘れもの。私たちが忘れた生き方なのです。



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