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  冷静と情熱のあいだ

2001/12



 御仏は、この宇宙の成り立ち、全ての因果を覚知され、殊にその宇宙の中で生きる私たち人間の心の在り様を説かれ、自らを知って正しく生きる道を説かれました。
 日博上人は、人の心を海の砂に譬えられ、風に吹かれて飛び交い、雨が降れば固まり、また風が吹くと飛び散り、手にギュッと握れば確かに握ることも出来るけれども、フッと力を抜くとサラサラと流れ落ちてしまう厄介なものである、と御法門されたと云います。
 私たち誰もが持っている「心」とは、最も身近にあり自分自身が一番知っているようで知らない、なかなかコントロールの利かないものなのであります。
 喜んだり怒ったり、悲しんだり楽しくなったり、不安になったり恐怖を覚えたり、愛情や憎しみが湧いてきたり、寂しくなったり、悩んだりするのが私たちの「心」であります。
 心は、人を仏にもし、また動物のようにもしてしまいます。
 迷い苦しんで鬼となり、覚って仏と成るのもまた「心」の仕業であると教えて頂きます。
 最近では、薬で脳内のホルモン分泌を操作し、心をコントロールしようとする試みがありますが、私たちの「感情」は調整できても、豊かな人生を描き出す為の「心」を育み調整することは叶いません。
 御仏の教えは、素晴らしい可能性がありながら厄介で扱いにくい「心」を持つ全ての人々の灯火となり、人生を強く、そして明るく、豊かに正しく生きてゆく為の御薬であると確信しております。
 人間は、人と触れあうその中で様々な心や感情を交差させて生きております。
 誰もが会社や学校、家族や友人、恋人との関係の中で、自分の心を使い相手の心を受け取って生活をしています。
 しかし、時に自分の心の愚かさから人を傷つけ、自らも傷つき、少しの誤解や僅かなすれ違いから取り戻すことの出来ない過ちを犯し、大切なものを遠ざけ、後悔に後悔を重ねてしまうことがあるのであります。
 夫婦関係をはじめとして、様々な人間関係の中で、欲望や嫉妬、プライドやコンプレックスが邪魔をして後悔の人生を送ることのないように、御仏の教えに耳を傾け、「心」を育むことが大切であると考えるのであります。
 最近公開された映画に「冷静と情熱のあいだ」という映画があります。
 私は、映像には映し出されない複雑な心理描写に惹かれ、映画を見ずに本を買って読んでみました。
 学生時代に深く愛し合った二人の男女が、ある擦れ違いから別れ、その過去に囚われながら、別々の人生を歩んでゆきます。
 題名の通り、「冷静」でいようとする心と燃えるような「情熱」との間で心が交錯し、永い時間をかけて自ら肯定や否定を繰り返しながら、いつしか二人は昔交わした約束の日を迎える、という物語でありました。
 普段、歴史小説やビジネス雑誌ばかりを読んでいる私は、久しく読むことの無かった恋愛を題材にしたこの小説に感動を覚えました。
 それは、人を愛するということの中にある自分の愚かさや純粋さ、心の弱さや葛藤を思い起こさせてくれたからです。
 恥ずかしいお話ですが、ご宝前に向かって御題目を唱える妙味を感得したことがあります。
 私が本山で修行をさせて頂いていた折、学生時代からお付き合いをしていた女性とのことで悩み、苦しんでいたことがありました。
 いま考えると幼稚な話だと笑うことも出来るのですが、当時の私にとっては大変な問題でした。
 彼女とはジェットスキーの大会を一緒に廻り、青春時代の多くを共に過ごしたので、プロを引退し本山で修行をすることになった私にとって非常に大切な存在であると考えていたのです。
 しかし、東京と京都という遠い距離や目指している人生が余りに違いすぎることなどから徐々に心は離れてゆき、いつの間にか別れを意識するようになりました。
 口にこそ出しませんでしたが、私は別れることがイヤで、勉強も修行も手に付かなくなった自分に嫌気が指しながらどうすることも出来ず、最後の最後になってから一ヶ月の間、本山の御宝前で一心に御題目をお唱えさせて頂いたのであります。
「何故、こうなってしまったんだろう」「こんなはずでじゃない」「何かの間違いだ」とお看経をさせて頂きながら、自分の心の中を自分の声が響き続けていました。
 しかし、ちょうど一ヶ月を迎える頃、自分の心の声とは思えない、温かく確かな、決して自分の考えでは達し得ないような「言葉」が私を諭すかのように心の中に響き、問答を繰り返すように感じました。
「お前は本当に彼女を好きなのか」
「好きです。愛しています」
「愛しているとはどういうことか」
「彼女と一緒にいたいのです」
「それは愛しているということか」
「でも、一緒にいたいのです」
「それは、お前の思いで、彼女もそのように望んでいるのか」
「いえ、今は望んでいません」
「でも、愛しているのか」
「はい」
「もし、本当に愛しているのなら、もっと大きな愛し方をすべきだ」
「どのような?」
「自分の気持ちだけではいけない。愛しているのであれば永遠に愛していればいいではないか。彼女を見守り、彼女が必要な時に必要とされる人間として彼女を愛してゆけばいいではないか」
 当時の私には御宝前からのお声のように感じられ、幾たびかそのような問答を繰り返した後、結論を出すことが出来た私は、冷静に彼女に電話をしました。
 別れはしましたが、今でも何か悩みや問題があると必ず話をし、私も真剣に、心から彼女の幸せを願って答えるようにしています。
 私のような勝ち気な性格ですと、人に相談すれば「この人は分かってくれていない」「そんなことは無い」と反発だけに終わってしまっていたかもしれません。
 しかし、御宝前に向かい御題目を一心にお唱えする中で御法さまから様々なアドバイスを頂くことが出来たようで、不思議と心が安らぎ、納得し、冷静になって結論を出すことが出来たのであります。
 もし、御法さまが教えて下さらなかったら、「冷静」と「情熱」の間を行ったり来たりするのみで、自分も傷つき彼女も傷つけ、空虚な時間を永く過ごすことになっていたかもしれません。
 人間ですから、愚かなる部分も含めて素晴らしいと云う人もいるでしょうし、私もご信心をすれば全ての問題がクリアになると云うつもりはありません。
 この件以降も、私の愚かさから人を傷つけてしまったと思うこともあります。
 しかしながら、一人一人の人生の中で体験する様々なハードルや壁を乗り越える為に、乗り越えられる「心」を養う為に、ご信心は不可欠であり、御題目をお唱えすれば自分でその素晴らしさを感得することが出来るはずです。
「冷静」と「情熱」の間で永遠に迷い、自分を見失い、愚かな後悔を繰り返すことのないようご宝前に向かい「心」を磨くべきです。
開導聖人の御教歌に、
 顔かたちつくろふ者は多けれど
   心を磨く人は少なし


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