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  お祖師さまの宿題

2002/04



 平成十四年四月、高祖日蓮大士立教開宗七五〇年記念、慶讃別修法要を奉修させていただきました。
 例年であれば、満開の桜の下で奉修されるはずでしたが、本年は異常な開花の早さのために、その思いは叶いませんでした。
 どれだけの方が、七五〇年前のお祖師さまの御心に思いを馳せてお参詣されたかは分かりません。
しかし、狂い咲きをした境内の桜の木々を眺めつつ、人類の未来と人間の愚かさ、子供たちの将来を想像して、この時代に生まれた私たちに出来る価値ある生き方、お祖師さまから私たち一人一人に向けて出された「宿題」について考えることが出来るのではないかと思うのであります。
 先住日爽上人の書斎から、書き残された文章を見つけ出しました。
 御法門の草稿と思われる文には、赤裸々にご自身の思いと有限の生、無常の世界で生きる一人の信者の生き方が示されておりました。
 それは、先住が四十三歳の時に書かれた文章です。
『 四日後の十月七日は私の四十三歳の誕生日であります。
教務という立場上、人間の死とか、無常とか、因縁とか、知っているつもりでも、十代や二十代の時は知っているだけで実感がなかった。兄貴が十一歳で亡くなっているんですが、私の一才の時ですから全然分からなかったのと一緒なんですね。でも、三十才を過ぎ四十を迎えると、だいぶん違ってきていることが分かるんです。
 ともかく、学生時代に力道山が、ケネディー大統領兄弟が、最近ではバーグマンが死に、ヘンリー・フォンダが死に、日本では越路吹雪に田宮次郎、木村巧。エルビス・プレスリー、ビートルズのジョン・レノン、江利チエミが死に、同窓生の名簿の死亡の文字。我々世代の代弁者のような人が、つぎつぎに逝くのは、廻り舞台を見るような感じである。
 他人の完結された一生を見るということは中年ニンゲンにとって、重い感慨である。著名人だけではなく、吹けば飛ぶようなわれわれも、生が完結し、ページが閉じられたとき、どっしりと重い意味をもって、生き残った人間に宿題を残す。
 人間の一生て、なんやろか。
 才能て、なんやろか。
 運命て、なんやろか。
 みんなアクセク、一生けんめい働いてるけれど、死んだら一瞬にパアやなぁ。とすると、いちばん大切なもんはなんやろか。
 どうです。何も感じない。
 越路吹雪やグレース・ケリーの死で、しばし俗気、娑婆っ気をはなれて考え込む。考えるだけで、答えは出ない。出るハズない。また、眉間にシワを寄せて考えるのではない。屋台でお酒を飲みながら、フトそう思うだけ。一般の人はそうだろう。
 店員ならお客に応対をしつつ、あるいは主婦なら洗濯機をまわしつつ、あるいはセールスマンなら車を運転しつつ、または私なんかでありますとご法門を考えつつ、フト思う。
 しかし、このフト思うのが中年者のゆえんで、若い時なら、そんなこと、フトもじーっとも、思いもしない。
 しかし、信者に「老若」はない。
「老いた人、順に人は死ぬのや」と考えられる人は幸せだ。しかし、現実は「昨日は人の上、今日は身の上」で、いつ自分の番にまわって来るか。わからないのではないだろか。
 あーっイヤだ、イヤだと考える。
信者なんですね、これが。だからこそ大尊師、佛立開導日扇聖人は教えてくださっている。
「だれが死んだって、死んだらしまい」という現実にあって、生きている間も、死ぬときだって、常に幸福だ、という満足感を味わいながら、生きる、死ぬ、ということはいくら頭で考えたってダメな私たちではないんでしょうか。
 だからこそ、この私たちの信心がある。
 未来の永さを、六十才や七十才、八十才の人より、もっと長いものと思い込んでいるとしても、もう少し信心させてもらおう、ご奉公させてもらおう、ご弘通のお力になろう、という動きの中に皆さんの姿を見ないことには不安です。
 無常の世の中で生きる、愚かな私たちであっても、必ずご利益をいただいて、幸福であるといつも言える人生であってもらいたいと願います 』
 この文章は、先住が四十三才の誕生日前に書かれたものですが、まるで自分自身に問いかけられるように赤裸々に無常と人生の意味、「生き方」について教えて下されています。
 特に、私にとっては、
「吹けば飛ぶようなわれわれも、生が完結し、ページが閉じられたとき、どっしりと重い意味をもって、生き残ったニンゲンに宿題を残す」
という文章、「宿題を残す」という言葉に惹かれるのであります。
「宿題」とは、「先生が学生に家でやってくるように課題を出す」という意味と「解決が後日まで持ち越される問題のこと」という意味があります。
 私たちの人生で、先に逝かれた方々から出された「持ち越される問題」、「宿題」とは一体何でありましょうか。
 それは、人生の儚さでしょうか。限りある命であるにもかかわらず、目先のことに囚われ、つまらないことに夢中になる私たちへの警鐘でしょうか。人間の「生き方」の「智慧」を探求し、正しい答えを探し出すことなのでしょうか。
 総じて、いまの自分の生き方、生活に対する叱責や激励には違いありません。
「残された私たち」、今生きている私たちなのですから、先に逝かれた先哲の言葉、宿題に耳を傾け、後悔のない生き方を実践し、より価値ある人生を探求すべきであると考えます。
「降るはずのない時に雨が降り、降るべき時に降らない」
 この言葉は、キリマンジャロの麓、タンザニアのリアソンゴロ村に六十年暮らしている長老ウィルバード・ミンジャの言葉です。
 彼は「地球温暖化」という言葉を知りませんが、その肌で異常な自然の変化を感じています。
 登頂に欠かせない地図も三年前に作られたものが使えない状況になっています。それは、地図作成からわずか三年の間に、氷河が半分になってしまっているからです。
 キリマンジャロの冠雪は、一九七九年以来、ほぼ三〇%が消滅し、氷河は最初に地図が作られた一九一二年以来、八二%が解けているといいます。
 東京でも、気象庁が三月十六日に観測史上最も早い桜の開花宣言を出しました。
 慶長三年(一五九三)春、京都で豊臣秀吉が行った「醍醐の花見」は、今の暦に直すと四月二十日頃だったようですから、桜の開花が異常に早まっていると分かります。
 熱帯地域の病が日本に上陸し、動植物を含めた感染症が世界中に広がり、民族や宗教が巻き起こす殺戮や紛争は後を絶たず、政治への不信は募り、弱肉強食の経済、欲望と消費至上主義のシステムや 自信を失った教育理念の迷走は、子供たちの未来に暗い影を落としています。
 いつ人は御仏の叡智に気づくのでしょうか。地球と人類、国と国、民族と民族、自分と他人、善と悪、自分と心の中のもう一人の自分、欲望と信心の真理に耳を傾けるのでしょうか。その貴い教えを孤高の頂きに据えてはなりません。
 お祖師さまからの宿題は、末法で生きる全ての人々に対して与えられたものであり、生き方の定規であり、私たちが探求すべき最も難しい人生の課題であります。


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