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  宗教の選択

2002/05



 人にはそれぞれ、様々な人生観や家庭観、死生観や世界観、宇宙観があります。
 育った国や環境、年齢や教養の深さ浅さも違うとなれば、同じ「人間」といえどもさらに大きく様々な差異が生じてまいります。
 その人間同士が寄り集まって国や社会、会社や学校、家庭で生活する所に面白さもあり、また息苦しさもあり、愛情から憎悪まで、また様々な出来事が織りなされてゆきます。
 他の人の個性を認め、それぞれの自分らしさを大切にすることが、現代に生きる私たちに求められていることと言われております。
 しかし、毎日のように耳にする恐ろしい事件の数々を考えると、個性とは何であろうか、どこまで個性として認めてゆけばいいのか、このまま傍観していていいのかと自問させられるのであります。
 ふとしたことから愛情が憎悪に変わり、傷つけ合う夫婦。先日は夫の殺害を愛人に依頼したと妻が逮捕され、さらに保険金を目的に友人四人と共謀して夫を殺害したという事件もありました。
 可愛い子供を五人も殺害した母。世界的な問題となっている「幼児虐待」を繰り返す親たち。そこに生命に対する尊敬の念は、一分も感じられません。
 一時の快楽を求め、麻薬に手を染める子供もあれば、陳謝する親。何が彼らを麻薬の常習へと走らせるのでしょうか。
 自分の地位や名誉、お金の為に悪事を行い、それが発覚して永年積み上げたキャリアを失う人たち。雁字搦めの人間関係の中で進退が極まって自ら命を絶つ人。
 夫や妻、子供や両親、自分自身の病気に苦しむ多くの人々。過去を振り返り、悔やみながら病院に通い、毎日を過ごす人もおります。 
 これら私たちの社会に渦巻く諸々の問題は、決して対岸の火事ではなく、私たちのほんの身近に迫ってきているのです。
 個性を認め合い尊重する余り、無為な生き方や自分勝手な考え方を容認して、明らかに愚かで危険ですらある選択をしている人々に対して、何も言うことが出来ない、伝えられないというのでは仕方がありません。
「個性」から一歩踏み込んだ所に、それぞれの人生観や家庭観、死生観や世界観、宇宙観を指す「哲学」という言葉があります。
「哲学」とは辞書を引くと「自分自身の知識や経験から積み上げられた人生観や世界観」とあります。
 自分で意識することはなくても、この自分なりの哲学を持ちながら、人間は物事に対処し、人間関係を築き、生活をしているはずです。
 しかし、同様に誰もがこの世界でたった一度きりの、はじめての人生を歩んで生きているのです。
 親子の関係でも夫婦でも、家庭生活や学校生活、会社勤めにしても、はじめての道をおぼつかない足で歩き、その初めての人生という旅の中で、成功や失敗、満足感や失望を味わいながら自分なりの「哲学」、人生観や世界観を築いてゆくというのです。
 ですから、それぞれの人生の中で最も大切であろうはずの人生観や世界観、家庭観や死生観、宇宙観が、偏った知識や教養、少ない経験から導かれてしまうところにこそ、人間の最大の不幸があるとも考えられるのです。
 東京大学の松井孝典助教授は、地球に生まれた知的生命体である人間について研究し、地球と人類の関係について哲学的な考え方を発表し続けています。
 彼は、水の惑星と呼ばれる地球の海と空、宇宙と地球の関係の中で、知的生命体「人間」が何物であるかを研究し、宇宙的な規模で人類を見つめることこそ、「人間とは何者であるのか」という非常に重要な視点を導くために必要であると指摘しています。
 もし私たち人間が、陸上ではなく海の中で生まれた知的生命体であったらその生命は「空」というものを認識できない。
 空を認識できなければ、光り輝く星々を見ることも出来ず、昇り、また沈む太陽も月も認識することは出来ず、知的生命体としてここまで発展し、客観性を持ち、宇宙そのものの起源にまで迫り、生命の神秘に近づける素晴らしい可能性を持つことはなかったであろうと述べられております。
 自分自身の少ない経験、自分の見える範囲だけの視点、常に自己中心的な考え方の中から導かれた人生観や世界観に終始しているのでは、真に豊かな人生を歩むことは出来ないのです。
 自分という人間について、死というものについて、私たちを取り囲む自然や地球、宇宙というものについて、賢さと愚かさについて、大きな視点と確かな真理を手にして生きてゆかなければ、一度きりの貴重な人生を愚かにも踏み外し、後悔してしまうことになるのです。
 宗教とは、大きな宇宙に生きる小さな人間に対して大いなる視点を与えるものです。
 真実の宗教とは、小さな人間をより小さなカゴの中に入れるものではなく、ある特定の民族を指し土地を与えるものでもなく、勿論自爆することでもなく、今の自分を肯定して悪い出来事を全て自分以外の罪として悪霊払いをするものでもありません。
 真実の宗教は、大いなる視点を与えるものであり、私たちに宇宙の法則を教えるものであり、その真理に基づいて人間の何たるかを教えて下さる必要不可欠なものであります。
 ある人には見えるが、他の人には見えていない。ある人は知っているのにある人は知らないということが世の中には多くあります。
 中国の古典、礼記には「学んで然して後に足らざるを知る」という言葉があります。
 自分の殻に閉じこもり、自分の小さな考えに終始している人は、結局自分の足りないところを知らないということです。
 人は、大いなる教えを学んで、大きな視点を得てはじめて知見が開けてゆくもので、如何に自分が小さい存在であるか、如何に自分の知らないことが多いかを知るのであります。
 はじめて耳にする知識や知恵、特に御仏の教えは、自分の足りないところを思い知らされるようで情けなくなる時もあります。
 しかし、そうした自分なりの壁を乗り越える努力をする所に進歩もあり、前進もあるのです。
 少ない人生経験を誇り、薄弱な知識を恥じずに「個性だ」「自分らしさだ」と肩を張っても、何の詮もありません。
 愚かな宗教も多くありますが、大きな視点を馬鹿にして、信仰の何たるかを知らずに歩む人生では後悔ばかりが目につくはずです。
開導聖人は御教歌に、
「をしふれば彼が命の親ならん
   虎ふす野辺にかゝる旅人」
とお示しです。
 地平線まで大きく広がる大野原。しかもその大平原には数多くの虎が住んでいるとします。その大平原を通ろうとすれば、十人が十人、虎に食い殺されてしまうでしょう。
そこに、土地勘もなく、虎が潜んでいることも知らない旅人が来て、日の傾く頃に平原へ足を踏み入れようとします。まさに旅人の命は風前の灯火となります。
 その時、幸いに土地の者が旅人の姿を見つけ大声で後ろから呼び止め、その危険を逃れさせます。まさに、旅人にとっては彼こそが命の恩人となるのであります。
 佛立開導日扇聖人は、大平原を末法の社会に、恐ろしい虎をそこにある多くの誘惑や苦しみの種とされ、命の恩人ともなる御教えの尊さ、お祖師さまのご教導の有り難さ、その教えを頂く私たちの菩薩行の大事を教えられています。 
 大いなる視点を手にし、真実の宗教を選択することこそ大事です。


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