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  てる月とかかる雲

2002/08



 私たちは人間ですから、生きておりますと嫌な出来事、不本意な出来事、辛い事に出会うものであります。
 そのような時に、自分の人生の上で、自分の信心の上で、どのような気持ちで対処し、心を養い、生きていくべきであるか、どのように生活するべきであるかを御仏は教えて下さっております。
 今は幸せである、家族も健康である、仕事も順調だ、一生懸命に生きよう、幸せになりたい、家族一同が幸せでありたい、と思っても思わぬことが起きるのが人生。
ご信心の上でも、ご奉公させて頂こう、お教化してこの人を助けたい、お寺のお役を頑張ろう、と思っても、中々まっすぐに功徳行が出来ないことがあります。
 それが末法であり、凡夫の業であります。
開導日扇聖人の御教歌に、
てる月にさはるとすれど村雲の
 ひまよりもるゝかげのさやけき
とお示しで御座います。
 「てる月」と申しますのは、尊いご信心のことであり、御仏の慈悲の教え、御利益のことを指しておられます。
 「さはる」とは「妨げる」という意味で「さはるとすれど」というのは「雲が邪魔をしようとするけれども」という意味であります。
 そして、「村雲」は、ひとむれの雲を指して、月にかかる一つの雲の固まりを指します。
 煌々と照る月に、一むらの雲があらわれてその光を邪魔しようとするけれども、その雲の隙間からもれてくる月の光が、その雲によってかえってよく澄んではっきりし、何とも云えぬよい風情であるという意となります。
 ご信心の面で受け取らせていただきますと、悪世末法といわれる社会で本門八品所顕上行所伝本因下種の御題目口唱のご信心をし、我も唱え人にも勧めようとすれば必ず障害が立ちはだかり、怨嫉が起こります。しかし、その怨嫉に決して負けてはならない、ということを教えて頂くのであります。
 ますます、信心を強く、強盛にして励むならば、自分自身の信心は益々光りを増し、ご宝前から頂く現証の御利益の道が開けてくるとお示し頂くのであります。
 この御教歌の御題には、「怨嫉却而利生あらはす(おんしつ かえって りしょう あらわす)」と御座います。
 凡夫の浅知恵で、私たちは「意味あることを意味がない」「大切なことを大切じゃない」と思う癖が御座います。
 誰もが幸せになりたい、幸せでいたい、楽をしたい、と思いますから、少々の災難、苦難がありますと、気分を害し、腹を立て、やる気をなくします。
 相手を憎み、相手を恨み、自分を恨み、運命を恨み、親を恨み、子供を恨み、仏を恨み、世の中を恨むことにもなります。
 しかし、そんなことをしても何も生まれてはこないのであります。
 しっかりと今ある苦難を見つめ自分が出来ることを見つけて前に進む。決して後ろを見てはいけません。むしろ、苦難があればこそと思える人生観が大事である、とこの御教歌では教えて頂くのです。
 人生には苦しみがあり、苦難があり、ましてや三世を救う御仏の道には苦難や困難がある。末法においては猶一層これが盛んである大変だぞ、覚悟しなさい、と諭されております。
遙か、御仏の時代にも、堤婆達多という御仏のお弟子が、その教えに逆らい、大きな過ちを犯し、仏を殺害しようといたしました。
 普通で考えると、こんなに邪魔な人、厄介な人はおりません。
 ところが、御仏は法華経の提婆達多品第十二の中で「僧たちよ、堤婆達多は余の良き友人である。この堤婆達多の御陰で余は六波羅蜜を完成し、偉大な四種の心を得、三十二の吉相や八十の福相をそなえたのだ」とお説きになられております。
 お祖師さまも、大難四ヶ度小難数を知らずのご弘通ご奉公の中で命を落とされるような事態に何度も遭われました。
 そして、その原因を作ったのがお祖師さまをこよなく憎んでいた東条景信だったのですが、お祖師さまはその東条景信こそ私の善知識である、と断言されます。善知識とは、仏になるために欠かせない大切な役割を果たす教え、という意味であります。
この考え方は、門祖聖人も、開導聖人も、日博上人も、そして先住日爽上人も変わらないご信心の感得の仕方、人生で起こる苦難困難の対処の仕方、ご信心の上での怨嫉に対する決定の姿であります。
 人は誰でも健康でいたい、と願いますが、「病は成仏の仲人」という言葉があります。
 それは、病気が仏道を成就させる仲人になる場合があるということです。病になってはじめて優しい心になり、家族の大切さも分かり、御仏の教え、ご信心の尊さが分かった、一生懸命御題目を唱え御利益の素晴らしさを感得したという方が数多くおられます。
 何にもない、幸せ、楽である、という中でのみ生きてゆくことは出来ません。凡夫の人生ですから自分にとって気に入らないこと、都合の悪いこと、苦しく辛いことが起きてくるのであります。
 ご信心させて頂いている私たちは、むしろそうした辛い状況の中でこそ学ぶ事、前に進む事が出来る、と感得しなければなりません。
 お寺のあらゆるご奉公の場所でも、教区内、部内、班内においても、信心を喜ぶ人がいない、信行相続している人がいない、何かしようとすると反対の意見が出る、後続者もいない。しかし、諦めてはいけません、と教えて頂くのであります。
 だからこそ、功徳が積めるのであり、ご奉公が出来ます。頑張ろうと思う。負けないぞ、と思う。私がやらねば、と思うことが大事なのです。
 信心を喜ぶ人ばっかり、後続者もたくさんいる、何をしても賛成される、認めてくれる、という中でのご奉公で功徳が積めるかどうか。この末法のご信心で、こういう状況が待っているかどうか。
 答えはノーであります。
 苦難、困難、人生の壁、ご信心の壁、怨嫉をものともせずに、むしろそれを受け入れ、喜んで気張る人が、真実のご信者、御利益が頂ける、寂光参拝が出来るご信者なのであります。
 先住日爽上人は、「今だけ見てはいけません」「世の中をうらむは愚か」「辛抱せよまことはつひにあらはれん」「うれしさは御法の為にする苦労」「たへられじ」そして「佛立魂」を教えて下さいました。
 どうか、この点をお一人お一人の生活、人生に、そしてご信心前に活かして、受け入れて、考えていただきたいのであります。
 お教化のご奉公の中で、班長のご奉公の中で、部長・教区長のご奉公の中で、お寺のご奉公、婦人会のご奉公の中で、辛いこと、苦しいこともあるし、人間関係もある。ただただ、そこで頑張れない挫ける、愚痴を言う、帰る、文句を言う、というだけでは、功徳は積めない、佛立のご信心の真髄を分かっていない、結局寂光参拝できないのであります。
 誰が真実のご信者、真実の弟子になるか、誰が東条景信になり、堤婆達多でしょうか。どちらにしても、やはり、堤婆達多で邪魔ばかりしているようでは、寂光参拝は出来ないのですが、少々の苦難で負けていては末法の修行になりません。
 「あぁ、この人の御陰で奮起できるわ。」、「功徳が積めるのね。」と苦難・困難に負けてはならない。
 辛い思い、苦しい思い、いやな思いもあるでしょうけれども、そこを、そうだからこそ、猶一層の強盛な信心を貫くことが大事大切であると、感得させていただくのであります。


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