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  三人の天使

2002/11



 人間にとって、愛する人と別れ、引き裂かれることほど苦しいことはありません。
 たった一度の人生の中で、親となり、子供と生まれ、巡り会い、愛し合い結ばれるという尊い御縁が御座います。誰にでもあるそうした御縁は、大きな宇宙から見ますと実にちっぽけで孤独な私たち人間にとりまして、どれだけ貴重で尊いものと言えるでしょうか。
 若い世代の私たちは、「別れ」について簡単に考えがちですが、御仏が説かれた「愛別離苦」という御法門は、人生の根本の苦しみとして愛している人々との別離を示された厳しい真理であります。
 別れた方が幸せだという悪縁もあるかも知れませんが、得てして目先のことだけに囚われて生きていると貴重な縁を見失うものです。決して後に戻らない時間の流れやいつか自ら死を迎える存在であることを自覚すれば、特別な人との別れの苦しみ、辛さ、悲しさは耐え難いものなのであります。
 御仏は「苦諦」という御法門に、時代や文化文明、貴賤貧富や老若を問わず、人間が人生の中で味わう根本的な苦しみが何であるかを示されました。「諦」とは、元来「諦める」という暗いイメージの言葉ではなく、「@つまびらかにする、あきらかにする。Aさとり、真理」という意味があり、御仏はまず初門の人への御法門として、あらゆる人々の人生に起こり得る「苦」を明らかにされました。
 苦諦の御法門は「四苦八苦」として広く世に知られており、普段の会話の中でも使われております。その四苦八苦の中の一つに「愛別離苦」は説かれているのです。
 連日、北朝鮮に拉致された方のご家族が悲痛な心情を訴えておられます。愛する人と引き裂かれた苦しみ、空白の時間の重さ、その理不尽な国家に対する怒りなど、容易にそのお気持ちを察することは出来ません。特に、家族が突然いなくなった直後の苦しみは想像を絶します。
 十年程前ですが「失踪」という映画がありました。血なまぐさいシーンもなくヒットもしなかったサスペンス映画でしたが、愛する人がデート中に突然姿を消すという日常にありそうなテーマに背筋が寒くなり、今でも記憶に残っているのでした。
 映画の冒頭、不幸な出来事など想像もしていない恋人同士が画面に映し出されます。郊外をジェフ(キーファー・サザーランド)とダイアン(サンドラ・ブロック)はいつものようにドライブを楽しんでいました。いつ結婚をしてもおかしくない非常に親しい雰囲気の二人ですが、普通の恋人がそうであるように、ほんの些細なことで喧嘩をしてしまいます。
 しかし、それも仲の良い証拠で直ぐに仲直りをする。その流れが非常に自然でどこにでもある恋人同士のようで、本当に微笑ましくなるのでした。
 そして、サービスエリアに入り、ガソリンを入れた後、車を駐車してお互いにさっきの喧嘩について謝ります。そしてまた愛を誓う。そこまでは全く普通の恋人同士。どこにでもいる二人なのです。
 しかし、そこで彼女がトイレに行くと言います。彼とキスをして彼女はトイレに向かって歩きます。歩きながら彼女は振り返り、愛らしい仕草で彼に手を振る。微笑みながら彼は車で待ちます。それが彼が彼女を見た最後になるのです。
 十分が過ぎ、二十分が過ぎても彼女は帰ってこない。最初は車の中で音楽を聴いていた彼でしたが、心配になってパーキングエリア中を探し回ります。しかし、全く姿がない。今まで話をしていたのに、約束したのに、と。
「恋人を見なかったか」とレジの人に叫んでも「見たけど」という素っ気ない返事。逆にレジに並んでいる人には文句を言われます。夕闇が迫り、警察を呼んで事情を話しても「最近喧嘩しましたか」「まぁ、そういうこともあります。帰って様子を見てくださいよ」と、よくある恋人同士の痴話喧嘩だと思われてしまうのでした。
「喧嘩はしたけど、そんなことはあり得ない」「彼女が何も言わずにいなくなるなんてあり得ない」。誰も理解してくれない失踪直後、彼は車の中で泣き出すのでした。
 その後、彼はたった一人で彼女を捜しはじめます。彼女を見つけ出すことだけが生き甲斐となり、生活は荒んでゆきます。一ヶ月に一度ポスターを貼り替え、ラジオなどにも出演して三年間に亘って探し続けるのでした。
 その後は映画的なストーリーが用意されていますが、愛する人を突然失うという恐怖、残された者の悲しみと苦しみが俳優の名演と共に忘れられませんでした。
 映画と一緒に考えることは許されませんが、拉致被害者のご家族が二十年以上も抱き続けた苦しみを推察させて頂くのです。いなくなってから一週間の苦しみはどれ程のものだろう。二週間、三週間は。一ヶ月、二ヶ月、一年、二年。その苦しみは図り知れません。
 しかし、突然の「愛別離苦」は拉致や失踪に限った特別なものではありません。戦後の引き揚げ期には、「生き別れより死に別れ」という言葉を掛け合い家族と引き裂かれた人々が励まし合われたと聞きます。「死んで別れるよりもせめてどこかで生きていてくれるならば良い」という悲痛な、叫びにも似た言葉です。
 車の事故で突然家族を失われた方はどのようなお気持ちでしょう。殺人事件はどうでしょう。特別なことでなく、病気で家族を失った私たちにも深い深い「愛別離苦」があります。無常を背負う人間であれば誰もが抱える苦しみ。その苦しみを見て凡夫の迷いから醒め、信行御奉公の大切さに気付かねばなりません。
 無常と苦諦の御法門を他人事のように考えている間は、本当のご信心は起こらず、お寺に足も向かず口唱行、功徳行、当然菩薩行にも励めないことでしょう。
 仏典には次のようなお話があります。生きている間に悪事を為し、死後地獄に堕ちた罪人に閻魔王が尋ねるという説話です。
「おまえは生きている時、三人の天使に会わなかったか」「大王よ、私はそのような方には会うことができませんでした」「それでは、おまえは年老いて腰を曲げ、杖にすがって、よぼよぼしている人を見なかったか」「大王よ、そういう老人ならいくらでも見ました」「おまえはその天使に会いながら、自分も老いゆく者であり、急いで善を為さなければならないと思わず、今日の報いを受けるようになった。」
「おまえは病にかかり、ひとりで寝起きもできず、見るのも哀れにやつれはてた人を見なかったか」「大王よ、そのような病人ならばいくらでも見ました」「おまえは病人というその天使に会いながら自分も病まなければならない者であることを思わず、あまりにおろそかであったから、地獄に来ることになったのだ。」
「次におまえは、おまえの周囲で死んだ人を見なかったか」「大王よ、死人ならば私はいくらでも見てまいりました」「おまえは死を警め告げる天使に会いながら、死を思わず善を為すことを怠って、この報いを受けることになった。おまえ自身のしたことは、おまえ自身がその報いを受けなければならないのだ。」
 自分の周りにある様々な悲しい出来事を単なる他人事として考えていては、法話にあるように結局後で悔やむことになるでしょう。
 人生の中で出会う天使たちは、成仏への「仲人」でもあります。幸せな人生へと導く天使、仲人は、実は毎日耳にするニュースの中、私たちの周りに溢れている苦しみの中にいるのかも知れません。
 佛立宗のご信心は、難しいことをせよと説いているのではありません。天使の姿に気付いた方から、お寺に参詣し、御法門を聴聞し、菩薩の行いをしたくなるのです。もし、あなたが天使と出逢ったら、御宝前に近づきたくなるのです。