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  活かす、菩薩の誓い

2003/06



 少数の人だけが分かっているのでは仕方がありません。佛立信仰は全ての人々に「生き方」を示す「活きた」教えであるからです。

 ある時、私は非常に残念に感じたことがありました。多くの人が佛立宗の教えと自分自身の生き方を結びつけられずにいると感じたからです。社会生活と信仰生活の間に深い溝があると感じました。

 「仏様の教えのように綺麗事では済まない世の中だ」「生やさしいことを聞いても勝ち残れない」「お坊さんだから言うのだろう」という声も聞かれました。御法門と本音は別、お寺の教えはお寺の中だけで、社会では通用しない、等とは本来の佛立信仰とは大きくかけ離れた話なのです。

 知らぬ間に教務とご信者、出家と在家の間に溝が出来、ご信心の強い方とそのご家族の間にも溝が生まれているように感じました。御仏の教えが人生と結びつかない、競争社会では役に立たないという誤った考えが深い溝を作っているのも知れません。教えを説く者の資質にも問題を感じますが、本来真実の仏教とは大哲学であることは勿論、処世人生訓の大系であり、あらゆる人を一つ上の自分へ導く、生きた、活かす教えなのです。
 佛立宗の宗義は、特別な場所で、特別な服を着て特別な修行をしなさいと教えるものではありません。娑婆世界の中で、娑婆世界を知り、見据えて、娑婆世界での生き方を教えられているのです。父は父、母は母として、子供は子供として、会社勤めの方、学生も無職の方も、その娑婆世界の日々の生活の中に本当の修行があると教えられます。当然、一人一人の生活から決して離れることはないのです。

「菩薩の誓い」は、私たちがどれだけ御仏の教えを自分の人生に、生活に活かしているか再確認することを求められます。お祖師さまは「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候ひけるぞ」と御妙判を下されております。「人々の所作振舞(行動・生き方)こそ御仏がこの世にお出ましになった御本意である」とお諭しなのです。菩薩の誓いを胸に、私たち一人一人がどれだけ「生き方」を変えられるか、行動に活かせるかが課題です。

 世の中は競争に溢れています。動物が力や牙、智慧等を駆使して自分を守り子供を作り命を繋いでいるように、私たち人間も生きる為には日々競争社会に身を投じ、自分の為に、愛する者の為に生活をいたします。逃げたくても逃れられません。だからこそ、菩薩の誓いを立てて、娑婆世界の中で、人間らしく、強く、正しく明るく生き抜こうと教えられるのです。

「上求菩提・下化衆生」とは菩薩の心を表した言葉です。向上心を持ちながら、思いやりと慈しみを忘れない生き方です。この言葉を自分の生活や性質に照らし省みることが大切です。バランスを失う人は成功しませんし、独りよがりでは、スタッフも育ちません。

 開導聖人は御教歌に、
「心せよ自屈上慢二乗心 これは信者の中のかすなり」
とお示しであります。佛立信者は菩薩の生き方を目指すべきですが、三つの性質を持つ人は「かす」=「底に溜まった不純物」「良い所を取った残り」となるから「心せよ」とお示しです。菩薩の誓いである「上求菩提・下化衆生」と正反対の三つの性質。「自屈」は、私はダメだと見切りをつける心、自分で折れて努力が続かない。「上慢」とは、自分を過大評価して、もう学ぶ必要はない、分かった、いや昔から分かっていたと驕る心。「二乗心」は、他人など知るか、。自分のことで精一杯だ、という心。菩薩の誓いをしている人は、この三つの悪癖をご信心で飛び越えて、残りカスや不純物にならないようにしなければなりません。諦めず努力する心、謙虚な心、思いやりと慈しみの心のバランスを教えていただいているのです。

 さらに、別の御教歌には、
「負けん気と根気と慈悲のある人は みのり弘むる器なりけり」
とお示しです。「みのり弘むる器」とは、まさしく「菩薩」を指されています。「負けん気」は、競争社会で生きる私たちにとって心強いお言葉です。「根気」は続けることの大切さを教えられ、最後の「慈悲」は人間にとって欠かせない尊い資質です。こうした教えの全てが、一人一人の人生に不可欠な「人生訓」であり、「御法門」であり、「釈尊の出世の本懐」とも申すべきものなのです。

 真実の仏教、佛立宗の宗義が、末法の実社会の中で生きる全ての人々を真に導き、心の柱とすべき究極の教えであると確信します。「菩薩の誓い」は、単に「優しくなろう」「人助けをしよう」等の観念的・偽善的な所から生まれたものではありません。仏教が示す、人間として最も理想とすべきバランス取れた生き方を目指す為です。

 信仰と生活は別個にあるものではありません。御仏の教えを信じている一人の人間として、確かに日々の営みが変わり、人生が充実してゆかなければならないのです。佛立信徒の生き方は菩薩の生き方でなければならず、菩薩の生き方は最も幸福に近づく生き方です。

 開導聖人は、
「自屈と慢心とは利生の道をふさぐ」
とお示しです。バランスを失い、三つの悪い性質のまま生きている人に、御利益は訪れず、御利生は顕れないとお示しなのです。考えてみれば「かす」を守る諸天善神は少ないはずで、寄り添うのは疫病神や貧乏神です。必死に生きてきたが、人もお金も残らなかった、節約したつもりが逆にお金が出ていく、栄耀栄華を求めたが残ったのは争いの種だけだった、という悪循環の営みから人間が抜け出すことを教えていただいているのです。

 究極の仏教とは、同時に究極の哲学でもあります。しかし、頭で考えている所に御仏の利生はなく、真の幸福も、悪循環から逃れる術もございません。菩薩の誓いは、「信心」から生まれた信心による実践の修行、日々に行う生きた姿にならなければならないのです。

 私たちは器であります。身体は大きい小さいの違いがありますが、私たちは心を入れた器なのです。ですから、その器の中に餓鬼の心、動物の心、修羅の心を入れているのではなく、菩薩の心で満たしてゆこうと心掛ける、それが菩薩の誓いです。そうした器を諸天善神が護らない筈はありません。

 自分の人生に、営みに、性格に、自分の家庭、自分の職場、自分の信心の場で菩薩の誓いを活かしてゆきましょう。生きた仏教を体現するのは佛立信徒しかおりません。


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