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  生きるための極意

2003/10



 人間関係の極意。人と出会った時、「この人から何が貰えるか」ではなく、「この人に何を与えられるか」を考える。良い意味で人に期待しない。最初から期待していると後で愚癡を言いたくなる。
 社会人の極意。最初にプラスを取ろうとすれば次にはマイナスが来る。最初にマイナスを取ろうとすれば次には必ずプラスが訪れる。目の前にお金や地位、名誉や権利権益が置かれれば欲しくなるのは至極当然だが、先にそれを取ってしまうと失うものもある。友情か信頼か。人心か本心か。目先の得ではなく、未来を見据えた損得で判断をすれば後で悔やまずに済む。選択を間違えなければ、次に来るはずのプラスを永遠に楽しめる。種まきの生き方。最初に「負(ふ)」を取る生き方。「辛抱(しんぼう)」を楽しむ生き方。
 家庭人の極意。家庭の中では、苦楽も、浮沈も、笑顔も、健康も期限付きのものばかり。これらを「猶予期間」と心得て、感謝して過ごす。永遠に続くと思えば感謝は浮かばない。無言は禁物、対話は不可欠。家の中に、家族の誰もが敬う偉大な存在が欲しい。父も母も敬う祖父母。仏壇等があればもっと良い。子供が反抗期になってから親は自分の無力さを知る。その時に偉大な存在の効果が出る。根無し草のような「幸せ家族」は砂の上の城で、家庭の中に「孝行」と「信仰」がないものだ、と。
 社会に出て仕事をしている最中、御法門は勿論、お給仕やご奉公の中で学んだことが自分の中で熟成されていたことに気づき、猛烈に嬉しくなったことがありました。そして、仕事先で出会った偉大な先輩諸氏から聞いた「極意」が、実は佛立宗の御法門と見事に符号することに気づき、遅蒔きながら感激したのであります。
 自分の生き方に取り入れてない、御法門を「坊さんの話」と片付けていては勿体ないのです。「極意」とは、大変な修行を積んだ者だけが得られるものと言います。佛立信者は、信行ご奉公に励む中で、自然にその極意を教えていただき、学んでいると確信しております。
 布施行(ふせぎょう)は単にお金をお坊さんに包むことではありません。「志(こころざし)」を与えていく菩薩の修行です。「無財(むざい)の七施(しちせ)」では、「和顔施(わがんせ)」として和(なご)やかな顔や声を施すことも、大切な布施の行と説かれています。まさに人間関係の極意が布施の精神です。ですから、人との出会いは与えることの始まり、と御法門では説かれます。自分が何を貰い、何を与えてこれたのかを顧みる、家庭内、会社内、友人の間で見直してみる。とかく、他人から貰うことは過小に、自分が与えたことは過大に評価してしまうものです。「自分はこんなにしているのに」「誰も分かっていない」と愚癡をこぼすよりも、自分が何を与えてきたかを顧みることが大事です。仕事をしているからお金を貰って当然ですが、いつしか「テイク&ギブ」になって、「ギブ&テイク」が逆さまになってしまうのです。表情や言葉、口調や眼差しも大切な布施の行。思いやりの心を与え、仏の教えを伝えることも最も尊い布施行です。これは、菩薩の誓いの一つと教えて頂きます。
 激動の現代社会では、「布施行など弱みを見せるだけ」と考えるかも知れませんが、そうではありません。与える生き方の先にこそ、後で得る大きな果実があります。だからこそ、社会の第一線で成功した人たちの「極意」なのです。布施行は種まきの生き方、喜捨(きしゃ)の生き方、苦しみも楽しみに変える生き方の第一歩なのです。
 最近、エスカレーターではなく、わざわざ階段を選んで上っていく人たちが増えました。健康な人が便利さに甘んじていると逆に健康を害するから、と教えられました。これも、先に苦しみを取り、後で「健康」という果実を得る一つの身近なお話です。便利さも使い方次第です。人にやらせて、自分はしないで得をしたと思う怠け心は、結局自分が貧乏くじを引くことになり、損をしてしまいます。最初に「負」を取っておくから、次に「プラス」が来る道理です。逆に、プラスだけを追い求めて、与えることを拒(こば)み続けバランスを失えば、因果の糸は切れ、恐ろしい事態が訪れるはずです。
 人間と地球の関係を顧(かえり)みても、自然の恵みは、私たちを生かし、豊かな生活を与えてくれていますが、私たちから地球に与えているものはごく僅(わず)かです。この関係は完全にバランスを失っています。この夏、南極上空のオゾンホールは史上最大級になり、北極圏最大の氷床は割れて海へと流れ出し、貴重な生態系が破壊されています。経済至上の世界には、危機感も、負を取る意識も共有できません。9月末、米国に続きロシアも京都議定書の批准延期を発表しました。理由は、「ロシアの経済的、財政的な国益を失わない為に急ぐ必要はない」というもの。国も人も、プラスとマイナスの選択に迷って、結局はお互い損をする道を選んでしまうのかもしれません。何かを得るためには、何かを捨てなければならないのです。
開導聖人は御教句で、
 捨ててこそ
  浮かぶ瀬もあり法(のり)の海
とお示しです。一生懸命に生きていればいるほど、「執着(しゅうじゃく)」という重りで命が沈みそうになります。「喜捨」とは、喜んで自分の心や時間、身体を使う、誰かのために、世の為に捨てるという生き方で、それは頓挫(とんざ)した自分の船を浮かび上がらせるために必要なのです。「法の海」ですから、因果の中心にある御法のためにこそ、自分を捨てて見るべきと教えて頂きます。
この宇宙を司る「法(ほう)」は、人間が世を治めるために作った「法律」ではありません。始まりが分からないほど昔からこの宇宙に広がる「法」であり、万象の因果を司(つかさど)るもの。真実の仏教で説く根本尊崇(こんぽんそんすう)の御本尊、上行所伝の御題目です。
 私たちは、その御法に対して、「ご奉公」してゆくことで極意を体得させて頂きます。真実の「公(おおやけ)」は、国や民族の「公」を超えた、地球や宇宙そのものです。ご信心、ご奉公、菩薩行こそが現世安穏、所願成就、世界平和の極意です。
 家族が幸せになる極意は、佛立信仰を受け継ぐ以外にありません。だからこそ、人生の極意が、佛立信仰の中にあると誰かが身を以て示すしかないのです。菩薩とは、全身全霊でそれを表現する人、「表現者」です。必ず伝わります。
 御題目口唱、お寺やお講席へのお参詣と御法門聴聞は、極意体得の基本であり、菩薩の稽古(けいこ)です。生きた仏教の表現者を目指して。


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