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  モノより思い出

2003/12



 日本有数のウミガメの産卵地、遠州灘海岸で豊かな自然を守ろうと活動を続けてきた馬塚丈司氏は、私の最も尊敬する自然保護活動家の一人です。子供たちに自然の大切さを学ばせようとする学校や地域が増える中、馬塚氏は既存の環境教育の在り方に疑問を投げかけています。それは、環境教育の多くが、オゾンホールや温暖化、酸性雨などの講義や、ゴミ拾いや古新聞や空き缶集めをすることに終始してしまうからです。

 約20年、地道な活動を続ける中で「これは本当の環境教育にはならない」と馬塚氏は考えました。環境問題は大人たちが経済優先の生産活動から招いたものであり、環境教育の名のもとで、なぜ子供たちにそんなことをさせなければならないのか、そのことで本当に子供たちが将来にわたって自然を大切にする人間に育っていくのか、子供たちの心に残り続けるのか。一面では「知識」を教える大切さを認めつつ、社会奉仕や自然保護に無関心な大人たちの現実を目の当たりにして、子供たちに「知識」ではない教育の在り方を提言、実践されているのです。

 遠州灘海岸は、日本を主な産卵場とするアカウミガメの指折りの産卵地。しかし、せっかく砂浜に産み付けられた卵が、海岸を走り回る四輪駆動車などに破壊され、無事に孵化(ふか)した子ガメもその轍(わだち)にはまって海に辿(たど)りつけず、絶滅の危機に瀕(ひん)していました。海岸には分解されないポリ袋などのゴミが打ち上げられ、他の生物にも悪い影響(えいきょう)を与えており、さらにカメが滋養強壮(じようきょうそう)にいいという噂を信じて卵を掘り起こして売ったり、孵化した子ガメをペットショップ等に持ち込んだりする人が現れました。馬塚氏は、産卵期を迎える初夏の海岸で朝まで花火に興(きょう)じる若者や、車を乗り入れようとする人たちに理解を求める一方で、将来を担う子供たちに「感動教育」を提言し、実践されているのです。

 「環境教育は感動教育でなければならない」という馬塚氏の信念に、私は大きな感銘(かんめい)と共感を抱きます。講義の「理解」から自然保護の心が生まれるのではなく、身の回りの自然の素晴らしさや営みを肌で感じることから「感動」が生まれ、自然を愛する心が生まれるということです。「感動」は、子供たちの心の中で一つの種となり、卵となり、いつか芽を吹き孵化をして、自然や生命を敬う大人になれる、そう信じる、という活動なのです。6月から8月にかけて、子供たちと海岸を歩きながら、カメのこと、海のこと、自然のことなどを話し合います。特に、実際にウミガメの赤ちゃんに触れ、海まで見送る観察会や放流会等では、子供たちは目をキラキラと輝かせ、永遠に忘れることのない貴重な思い出を作ることができるのです。「感動の種」を信じる自然保護活動の姿です。

 「モノより思い出」という自動車のコマーシャルがあります。家族の視点で撮られたホームビデオのような映像と、何よりもこの冒頭の言葉が印象に残ります。楽しく遊ぶ子供たちの笑顔が輝き、家族で時間を共有することの大切さに気づかせてくれています。子供の頃、多忙な父親とゆっくり過ごす時間などはありませんでしたが、だからこそ数少ない思い出が鮮明に残っています。それこそ永遠の宝物です。モノに飢(う)えた現代人。モノの価値だけを盲信(もうしん)する現代人。モノを与え、モノに溢(あふ)れた部屋の中で淋(さみ)しそうに過ごす子供にするのではなく、「モノより思い出」の大切さを、私たち大人は痛感しなければならないのです。

 自分の眼で見て、耳で聞いて、肌で感じて「感動」は生まれます。一緒に時間を過ごし、感動を共有して「思い出」が生まれてきます。その感動は種となり、いつか芽を吹くはずです。自然保護も家族の絆(きずな)も、強く、正しく、明るい心も、ご信心も、菩薩の心も、感動から生まれると確信します。

 本門佛立宗の御法門は、決して難しくありません。その御法門の後ろには膨大な甚深の教理教説が控(ひか)えているとはいえ、真実の仏教は上行所伝の御題目に極まります。その御法さまの大慈大悲(だいじだいひ)を感得(かんとく)し、その喜びを伝えることこそ、真実の仏道修行、誰にでもできる菩薩行です。知識を学ぶことよりも、感動を共有し合うことこそ、実はシンプルに見えて真実の仏道修行、本当の菩薩行といえるのです。

 モノを買い与えても駄目。智慧比べをしても、それだけでは駄目。時間を共有する、感動を共有することが人生の中でどれだけ大切か。それは同時に本門佛立宗の修行の中で、最も大切なことなのです。

 先日の高祖会。惜しくもお参詣が出来なかった方々は、千載一遇(せんさいいちぐう)のチャンスを逃したと言えます。私は、日曜の第二座、第三座共に涙を堪(た)える事ができませんでした。御法さまを信じ、御法さまに助けていただき、御法さまにお守りをいただいた方の素直な喜びの声は、深く胸を打ち、涙が止めどもなく溢れてきました。活字でもテープでも、ビデオでも伝え切れない「ライブ」だけの感動があります。御題目口唱で感動し、御法門聴聞で感動し、体験談で涙し感動したまたとない御会式でした。お参詣してこそ味わえる千載一遇の感動あるご奉公だったのです。

 妙深寺では「感動ある」という言葉を全てのご奉公の枕詞(まくらことば)に据(す)え、感動ある御講席、感動ある御会式、感動ある寒夏参詣、感動ある法城護持、とご奉公を進めてきました。何も特別なことは必要ありません。ただ、ご信者さんが自分の喜びの声を語り合い、お話をしてくださるようにお勧めしてきました。一年を経て、あらゆるご奉公の場面で、思わず涙が溢れてくる、感動あるご奉公がたくさん出てきはじめました。

 菩薩行とは、感動し続けることかもしれません。菩薩とは、「感動し続ける人」のことをいうのです。御利益を頂かれた人の話に感動し、御法さまに感動して、御法さまとお出値(であ)いできた自分自身の果報に感動することができます。古法華(ふるぼっけ)とは感動のできない人のことです。

 開導聖人は御教句(ごきょうく)に、
「信心と年はよるほど若返れ」
とお示しです。年を重ねるごとに純粋で素直に感動できる若々しい心でいなければなりません。感動しているか。感動があるか。感動を与えられているか。

 思い出の残るご奉公をしたい。感動を伝え合うことのみが、菩薩の輪を広げる唯一の道なのです。ご信者の数だけヒーローがいます。感動で今年を締めくくり、来年も感動あるご奉公で菩薩の輪を世界に広げてゆこうではありませんか。


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