TOP > 佛立の眼 - HBS eyes > 治にいて乱を忘れず







  治(ち)にいて乱(らん)を忘れず

2004/01



 「金持ちの子供はバカになる、二世議員はニセ議員、二世坊主はニセ坊主」と苦言を呈(てい)されることがあります。耳の痛い話で、反論したい所ですが、実際にそうなる確立は大きいのかも知れません。

 苦労の果てに、宝物を見つけた初代の方と、生まれた時から家に宝物があった者とでは、自らその境涯(きょうがい)が異なります。実体験として培(つちか)われた思想や哲学や信仰心は、「知識」と異なり、後代に伝えることが極めて難しいものなのです。悲しいかな、二世三世と呼ばれる者は、初代と同様か、それ以上の苦労や実践を重ねなければ、本当の意味でその恩恵に預かることは出来ないと教えられるのです。

 大きな変革の時を迎え、様々な分野で破壊と創造が続く時代です。不安定さを増す世界では、競争や淘汰(とうた)は激化し、誤魔化しや甘えが通用しなくなっています。自覚も責任もなく、何となくやってきた、頼まれたからしていた、言われたからしてきた、という生き方では誰からも認められず、信頼されず、結果として不幸になるだけです。社会人としても、家庭人としても、一人の人間としても、今の幸福を噛みしめながら、その上であえて苦労を厭(いと)わぬ姿勢が、真の成功や幸福の条件に数えられています。

 問題から眼を逸(そ)らす癖。悠長に構えて先送りにする癖。媚(こ)びる癖。良いことは自分の力、悪いことは他人のせいとする癖は、甘えている証拠ですから改良が必要です。フラフラと流され、安閑(あんかん)と生きてきた人は最も不幸な人と言えます。突然の災難や病気、体力の衰えに老いを感じた時、家族の身の上に何かが起きた時、この国に危急の事態が起きた時、今の生活形態を劇的に変えざるを得ない世界的な危機が勃発(ぼっぱつ)した時など、その時々にただただ慌て、狼狽(うろた)え、嘆(なげ)くしかなくなるからです。

 私たちは無常の身の上ですから、「いざ」という事態が必ず来ると教えられています。

 古代ローマの哲学者セネカは、「良く死ぬことを知らぬ者は悪く生きるであろう」「生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである」との言葉を残しています。これは佛立の人生観と相通じるものです。

 お祖師さまは御妙判に、「人の寿命は無常(むじょう)也。出(いず)る気(いき)は入る気(いき)を待つ事なし、風の前の露なお譬にあらず。賢(かしこ)きも愚(はかな)きも、老たるも若きも定め無き習(ならい)也。されば先(まず)臨終の事を習(なろ)ふて後に他事を習ふべし」とお示し下されています。「いざ」を忘れて過ごす私たちに、人生を有意義に、力強く、明るく正しく、生きる「心得」をお諭し下されております。生命の価値に気づき、今の幸福が猶予期間に過ぎないと感得してはじめて、甘えや慢心(まんしん)を越えた生き方が出来る、と教えていただいているのです。

 人間が、本当に充実した人生を送るためには、正しい信仰が必要不可欠なはずです。多くの人は、一部のカルト宗教をイメージして無神論者(むしんろんしゃ)を気取り、曖昧(あいまい)な態度を続けていますが、それこそ誇りと自覚の無い生き方だと考えます。「人間はどのように生きるべきか」という問いが宗教の基点にあり、「生き方」を考えれば「死に方」について考えざるを得なくなるのです。そこで、何らかの不思議な法則を見出した時、そこに「宗教」が生まれています。「無神論者」「無宗教」と言っても、自分流の宗教を作り上げているだけです。宗教を無視しては、人間も語れず、民族も語れず、世界も語れません。今は必要ないと思っている人でも、いつか必ず考える時が来ます。

 死後について。生きていく中で神のような存在はいるのか、いないのか。ある人は運が良く、ある人は運が悪いのは何故か。人間は何のために生きていくのか。その問いに宗教は答えるのです。

 人間のエゴや妄想(もうそう)から生まれた宗教や政治的な意図から生まれた宗教は、真の宗教ではありません。三世を超えた因果を説き明かした御仏の教えこそ、真の宗教に違いありません。しかし、その仏教も正しく継承されていないのです。

 葬儀業者の一部と化した寺院はニセ坊主の温床(おんしょう)となり、新興宗教諸宗は政治や経済のイニシアチブを取ることに執心(しゅうしん)し、広告と中傷のみに長(た)けて、本尊(ほんぞん)や教義(きょうぎ)を変えても平然と活動している有り様です。庭園や建築様式などを誇る、文化としてのお寺や葬祭場や墓地としてのお寺はあっても、それは本当の意味での「仏教寺院」ではありません。断片的に思想を切り張りしているだけの「説教」ではその中心がイエスでもマリアでも良いということになります。

 今こそ「宝物」の真価を認識し直す時です。既成仏教でも、新興宗教でもなく、頑(かたく)なに仏教の真義を貫いてきたのが本門佛立宗です。本来のお寺、普通のお寺、本当の仏教寺院です。ですから、たとえ自分が何代目であっても、ご縁を頂いて、本門佛立宗という真実の仏教にお出値いできたのですから、ぜひそのことに誇りと自覚を持つべきです。その価値に気づかず、頼まれてしているようなご信心はニセモノで、意味がないのです。自分で選択したという意識が無いことで自問自答することもあり、「自分で決めた」と言える初代を羨(うらや)む気持にもなります。しかし、真剣に取り組めば、確かに返ってくるのが真実の信仰なのです。

 御仏は法華経如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)の末に、「常に、我を見るを以ての故に、而(しか)も驕恣(きょうし)の心を生じ、放逸(ほういつ)にして五欲に著(じゃく)し、悪道の中に堕ちなん」と説かれております。御法さまがいて下さるという甘えが出れば、慢心(まんしん)し、気まぐれになり、欲望に任せて生活し、結局は悪しき道に逆戻りしてしまうということです。生まれた時から家に御宝前がある、私のような後代の者こそこの点に留意が必要ということです。

 末法悪世は年を追う毎に進み、家族や親族同士による殺人事件、幼児や老人など弱者に対する凶悪犯罪、個人レベルでもテロ行為は増えるばかりです。詐欺や強盗は、二十年前の五倍に達しています。

 世界平和の理想や理念が崩れ、憎しみや悲しみが広がり、天地に怒りが満ちるのは、一人一人の心から思いやりや慈しみの心が無くなっているからです。菩薩(ぼさつ)の心を伝える仏法が衰えているからです。

 お祖師さまは立正安国論に、
「何ぞ佛法の衰微(すいび)せんを見て心情の衰惜(あいせき)を起さゞらんや」
とお諭しです。きっと、仏教徒が果たすべき役割があり、佛立信徒が持つべき覚悟があるはずです。

 「いざ」に備えて、「治にいて乱を忘れず」、誇りある真実の仏教徒として立ち上がりましょう。


Copyrights(C) GITEN-Workshop all rights reserved.