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  心の中の大掃除

2004/12



 十分な結果が得られず、心残りがする様子を「遺憾(いかん)」と申します。「大変、遺憾に思う次第です」

などと事ある毎に政治家や経営者の方々は話をされますが、もはや高所から責任転嫁をする時に使う言葉と感じて、後悔や反省という範疇(はんちゅう)からも外れているようです。

 因果を教えていただく私たちは、ゴールや節目に際して、何を思うべきでしょうか。年末に当たり、このことの大切さを思い返します。

「実力を遺憾なく発揮した」

という言葉もありますが、うまく行くことばかりではありません。努力が報われないこともあります。

 しかし、私たちは失敗を恐れるべきではないと思うのです。失敗は反省することさえ出来れば人間を成長させてくれます。失敗するから反省できます。思案している間に時は過ぎてゆきます。精一杯の努力と、締めくくりの反省こそ、成長や成功に不可欠だと感じます。

 誰も責任を取らず、謝罪をする事もなく、虚実(きょじつ)を織り交ぜ責任を転嫁(てんか)する風潮の中に、真の平和な社会や各個人の成長や幸福はないでしょう。良いことは自分の成果、悪いことは他人のせいとする世の中では、悪循環を繰り返して取り返しのつかない結末を迎えます。そこで後悔しても始まりません。

 紛争やテロ、天災が競うように起こった恐ろしい年が過ぎようとしています。私たちこそ、その年の締めくくりに当たって、正しい反省の仕方が出来なければならないと思います。

 開導聖人は御指南に、

「懺悔(さんげ)は悪魔退散の祈祷(きとう)也。
 懺悔する心の内のすゝはきに
  悪魔のほこりたゝき出されぬ
 悪魔とは病・貧・死の三神也」

と御教歌と共にお示しです。

「疫病神(やくびょうがみ)」「貧乏神(びんぼうがみ)」「死神(しにがみ)」は、三兄弟ともお示しで、反省改良の懺悔こそ災難除滅の秘訣なのです。

 私は「後悔」という言葉が嫌いです。自分の思慮の足りなさを、あとで悔しく思っても、その言葉に動きが感じられないからです。ただ過ぎたことを悔やむことなどしたくありません。十分に考えて行動することは大切ですが、後悔とは、あくまで感情の上の話です。

「懺悔」には、反省と改良の意があり、極めて大切な教えなのです。しかも、真実の佛教、本門佛立宗の教えに照らした「お懺悔」とは御法に対するもので、カトリックのように「汝(なんじ)の罪は許された」と安易に決する性質のものでもありません。知らず図らずの愚かさを自覚して、その罪が幸せの妨げになっていることを知り、自ら御法に対して、告白し、向後の改良を誓うことが「お懺悔」です。

 当然ながら、お懺悔が通れば、災いをもたらす要素が取り除かれ身も心も軽くなって、次の一歩が心おきなく踏み出せるのです。

 私のお懺悔の最たるものは先住日爽上人、父に対することです。先住の大けがから御利益を感得し、ご弘通ご奉公に生きると決意したにも関わらず、ある時期からお寺や宗門の在り方に幻滅し、教務やご信者の感性にまで疑問を抱いて、社会に出ることを御願いしました。

「ご信心は社会でこそ活かすべき」「教務と信者の溝が深まっている」「お寺の中だけで裸の王様になるのはイヤだ」「もう本来の佛立宗ではない」など考えていました。それは恐ろしい慢心(まんしん)でした。

 御住職と執事長に無理を御願いして、理想と希望に燃えて社会へ。その時、父の心中を察する余裕もありませんでした。死に物狂いで働き、何週間も何十食もコンビニのお弁当で過ごしました。先輩や友人に恵まれ、横浜駅前の数坪の事務所から、勢いを増して会社は大きくなっていきました。当初の理想は形を変え、「教務など辞めよう。在家の方がご弘通は出来る」などと考えるようになりました。大慢心の、恩知らずの考えです。

 年末の押し迫った頃、御住職と局長が青山の伊藤忠本社の二階にあったオフィスに訪ねて来ました。仕事も順調で、調子に乗っていた私は、寒風の中を長時間待たせて、席に着いても落ち着きがなかった。

「約束の期限は過ぎた。そろそろお寺に戻る時期だ」

とお話しをされました。聞く耳も無く、逆に父は上司や同僚からの話を聞かれ、帰り際に振り返って、

「風邪ひくなよ。バカ!」

と言って出て行かれました。その姿は今でも眼に焼き付いています。会社の同僚たちも、その父の慈悲に満ちた言葉を忘れることが出来ないと言っていました。平成十年の暮れのことでした。結局、その日を境に父は体調を崩し、春先の検査で癌の宣告を受けたのです。

 その一年程前、会社からお参詣に来た片倉の交差点で「このままだと父が死んでしまう。僕が気づかないから、そうなってしまう」と思ったことを思い出しました。まさにそうなってしまった。私が父を苦しめ、死なせてしまったと確信しています。順調だと慢心をしている間は、思っても感じても、反省や改良が出来なかったのです。

 少しはマシになったでしょうか。ご迷惑と恐ろしい失敗を重ねて、少しだけ変わることが出来ましたが、愚かさは今年一年を顧みてもイヤになるほどありました。父は帰ってきません。しかし、失敗の中でもお懺悔を繰り返し、御本意に叶うご奉公に近づきたいと反省と改良を誓っているのが現実です。

「懺(さん)とは先悪を陳露(ちんろ)するに名(なづ)け、悔(げ)は往(おう)を改め来(らい)を修するに名く」

と天台大師は述べられております。陳露とは悪いことを隠さず表し、往を改め来を修すとは改良をして御法の筋に照らして菩薩としての生き方に進み出ることを指します。 だからこそ、懺悔をする人の心や家から、悪魔のほこり、三兄弟は叩き出され、居場所を失うのです。

 本年、妙深寺では十二月を御礼と懺悔の月としています。例年のやり方では、節目の在り方が十分では無いと感じていたからです。お寺の中でも、お戻りの御本尊や御尊像に対する御不敬(ごふけい)、ご奉公の上でも知らず計らずの習い損じがあって御利益の妨げになっているかもしれませんから、住職・教務が徹底的に懺悔・改良いたします。ご信者の皆様も、御不敬・懈怠(けたい)・謗法(ほうぼう)をよく顧みてお懺悔し、自分の言動に間違いや偽りがなかったか、是非とも反省改良することに努めましょう。御利益感得のため、悪魔のほこりを出すため、本当に充実した日々を迎えるためです。これが私たちの心の大掃除です。

 過ちに気づけないことが愚かさの最たるもの。まず「お懺悔」で埃を吹き払いましょう。きっと、床に落としてしまっていた大切なものが見つかるはずです。



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