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  感心上手の信心下手

2005/3



 また、恥ずかしいお話からはじめたいと思います。怒られるかも知れませんが。

 私の妻は、縁があって外国から嫁いで参りました。とても住職の妻にはなれないと、先住ご遷化の直後は別々の人生を選ぼうとしましたが、甲状腺癌という病もあり、出来ないながら母と共にサポートしてくれています。変わった住職に変わった妻で、十分なご奉公も出来ず、申し訳御座いません。

 その妻も最近は本門佛立宗の教務やご信者さま方の姿、お寺の中のことも理解し、子供もご宝前で「無始已来〜」と唱えるようになり、御利益の不思議も実感して、少しづつ成長してくれているようです。「やはり仏教は素晴らしい」という彼女の言葉を聞くと嬉しくなります。

 昨年末、数年ぶりに生まれ故郷へ帰国した際、叔父様が亡くなり、クリスチャンの葬儀に参列して帰ってきました。

「私は母親と一緒に墓地に行った。みんな帰り際に胸で十字を切ったけれど、私はあなたから言われたのでしなかった。お母さんが何故しないのと尋ねた。私は心の中でしているので良いと答えた。ちょっと困ったけれど、私はもうクリスチャンでは無いと感じたわ」

 レベルの低い話ですが、彼女にとっては大きな出来事で、仏教徒として自覚したのかと嬉しくなりました。「聞いていてくれたんだ」「分かってくれていたんだ」と。しかし、その後の言葉がダメです。

「私は、仏教は本当に素晴らしいと思ってる。みんなとても良い人だし。でも大声を出してバンバン膝を叩いて、首を振っているのは理解できない。恥ずかしいの」

 私が妻と交わした現実の会話。ご信心の篤(あつ)い方にとって本末転倒もはなはだしい愚かな話なのですが、これを私の旧知の友人で、私が教化して佛立宗に入信した小泉氏に話をして、又愕然としました。
「全く参った。ウチのがこういうことを言っていたんだ」
と話をすると、
「いや、実は僕もそう思っていた」
と言うのです。本当に驚きました。

彼は、御宝前を護持し、奉賛会でご奉公し、今春には彼が関係するロス・アンジェルスのラジオ局で私の番組を立ち上げようと企画を進めてくれている程、喜んで信心していると思っていたのですが。

「本門佛立宗の教えは素晴らしい。本当に仏教の中の仏教だと思うし、教えも分かりやすい。ただ御題目をお唱えするのは、何かちょっと理解できないんだよ」と。

 非常に残念なことですが、ごく身近な人がこうした感覚を持っているという現実を思い知らされたのです。妻、夫、教化子、自分の家族に、どのくらい御題目口唱の素晴らしさ、大切さを伝えられているか。御題目口唱という根本の修行を正しく実践できているか。

 平成15年の妙深寺高祖会、唱題寺の竹村堅裕師に御法門を頂きました。10年間、重度のうつ病で何度も自殺未遂を重ねた森田麻子さんと優名ちゃんにもお参詣いただき、直接お話をお聞きして、参詣者一同の涙で本堂がいっぱいになりました。

 学校から帰ってきて、いつも布団の中で寝ていたお母さん。いつも泣いていたお母さん。一緒に寝ることも食事をすることも、一緒にお外に行くことも出来なかったと、優名ちゃんはお話ししてくれました。学校でいじめにもあっていた優名ちゃんは、お母さんのために縁があって入信した唱題寺の御宝前に朝夕にお参詣し、お母さんのこと、お友だちのことをご祈願していたと教えてくれました。その幼気(いたいけ)な姿を見て、堅裕師は「これぞ佛立教務」という壮絶なご奉公をされ、お母さんは地獄のような世界から子供たちの元に帰ってきてくれました。森田麻子さんは、
「私が苦しんだ分、人の苦しみを理解してあげられる。今度は人の幸せを願い、助けることを喜びにして生きていこう」
と決定され、何人もの人をすでにお教化されています。堅裕師は、多くの人の苦しみの現場に入り、お話を聞き、お折伏をされ、尊い御利益のお話を聞かせてくれます。

「これはお懺悔ですけど、実は僕は、何度も諦めようと思った。でも、子供たちの姿を見ていて、助けなきゃだめだ、この子たちを助けろ、と決定をさせて貰った。お母さんはお金で買えません。お母さんお金で買えないでしょう」と涙ながらに訴えてくれた御法門に、私は我を忘れて泣きました。

 堅裕師は、苦しんでいる方々に、
「皆、罪障っていうのがあってね。自分じゃ分からなくても、苦しんでいる原因は、全て自分でまいた種なんだよ。その謗法罪障を消滅するためには御題目をお唱えするしかないんだよ。唯一の方法だよ」
と真剣に語りかけます。そうして、相手の方はポロポロと涙を流してその言葉を信じ、教えられた通り御題目を唱えて確かに眼の醒めるような御利益を感得される。

 御題目口唱は、自ら背負う罪障や業を消滅して下さる究極の修行、仏教の核心です。逆に、御題目をお唱えしなければ何の意味もない、何の利益もないと説くのが真実の仏教、本門佛立宗の教えです。

「俺は御題目を唱えられない」
「なんで唱えるのか分からない」
 そのような人もいるでしょう。しかし、それは御題目口唱の妙味、素晴らしさを知らないだけです。口唱行による妙不可思議の現証の御利益を知らないだけなのです。

 瀕死の父を助けたいという思いの時、私は本堂で「助けて下さい」という声に代えて御題目をお唱えしていました。もし「黙って祈れ」「欲望を捨てて、座禅を組め」と言われても出来なかったでしょう。そして、御題目口唱のお力により、現証の御利益を感得できました。

 病室の中、重病の方の手を握り、小さく唱える御題目。いま臨終を迎えるという方をお見送りする時の御題目。難しい聖書の一節でもなく、長い経文でも無い。誰もが唱えられる御題目です。それだけで良いのです。本堂の中で重なる声と声。その心地よさ。

 開導聖人の御教歌に、
 末法は智慧をとどめて信をとり
  となへて妙の門に入るなり
と御座います。仏教は素晴らしい、精神世界と物質世界を結ぶ思想、人類の至宝、と感心しても、何の利益もありません。暇つぶしです。元来、私たちには御題目口唱以外の点に興味を持つ癖がありますが、その癖を「とどめて」、御題目を唱えて、初めて門に入るのです。

「感心上手の信心下手」との言葉があります。感心しても、ダメ。御題目口唱の尊さを教え、伝えて実践させなければ、御利益の門に入れないのです。

 大尊師御指南に、「信とは行也、行とは口唱也」



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