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  妙法の賞罰を知る

2005/10



 ご信心を改めれば、御法の尊い賞罰、お見守りとお導き、御慈悲がどれだけあらたかで、明らかであるかが実感できます。自分勝手な信仰心のまま、鏡を磨くように「改良」を心掛けることもない、御法さまの御威光を曇らせている信心前を反省することが大事です。

「妙法の 賞罰あらた なることを このごろしりぬ 改良の故」
「信者は一生の改良なり」
と開導聖人はお示しです。私たち佛立信者は、日々ご信心前の改良に努めなければなりません。

 身勝手な信仰心、器用なように見えて心ないご奉公振り。これは極めて残念なことです。同じ時間、同じ労力を費やしても、ご信心ではなくなってしまう。心を失う、心を曇らせば、御法さまの御威光、御光り、お守り、お導きも曇ってしまいます。すると、御法さまの御力を感じられない、自分の身近に捉えられなくなります。

 悪いことをしても何も起こらず、ご祈願をしても何の御利益も顕れない。時間だけが、ただ経過していく、というようになってしまいます。最後には不幸になるだけの、都合の良い出来事に幻惑されて、将来幸せになるための厳しい試練である出来事は、途中で投げ出し乗り越えられなくなります。

 それでは、真に霊験あらたかな、同時同刻、現証の大御利益を顕す本門佛立のご信心ではなくなってしまいます。理由はたった一つ。この本門の御本尊に向かう、一人一人のご信心前です。心を失っていないか。清々しい、素直な心ではなくなり、疑いや迷いや慢心で、心を曇らせてしまっていないか。曇らせてしまうから、妙法の尊い御利益が顕れなくなるのです。

 もう何年、何十年も、ご信心の改良もせずに過ごしている人は、真の賞罰を忘れておられることでしょう。最も不幸なことです。

 私たちの御本尊は、「こころ」そのものです。御妙判には、
「文(もん)に非(あら)ず、其(そ)の義(ぎ)に非(あら)ず、唯(た)だ一部(いちぶ)の意(こころ)のみ」
とお諭しです。御本尊は、凡夫の眼には文字に見えますが、御仏の御心・魂・精神そのものなのです。この全宇宙の心・魂を表している。凡夫だから文字に見えるだけです。

 私たちも、心・魂を入れてある器に過ぎません。また、私たちの声も心です。私たちは、心を声にして出しています。しかも御題目をお唱えすることによって御心と私たち凡夫の心が共鳴するのです。私たちが唱える御題目の振動が、御本尊という宇宙の心と共鳴して現証の御利益が顕れる。御心と心だからこそ、現証が顕れます。

 お金も同じように、当然ですが凡夫にはお金に見えます。しかし、このお金すら、御法さまの前では「心」だと教えていただきます。御布施・御供養をお預かりして、「これはご信者さんからのお金ではない。心だ」と教えていただくのです。ですから、志の篤い浅いはあっても、金額の大小はない。出来る人がしない、出来ない中でさせていただく違い目は心です。

 心があるからこそ功徳にもなり、御利益にもなる。心だからです。

 お参詣する時の電車賃、バス代、高速代もガソリン代も、御法さまの前では「心」。ご奉公で身体を使う、時間を使う、見えるもの、見えないもの、全てが「心」です。

 だから、心を大切にする、志を立てる。心を御法さまに、御宝前に向かわせるから、御利益がある。志がない、心がない、心が曇る、心を失うと、同じ事をしていても、妙法の尊い御利益、本門佛立宗の圧倒的な現証の御利益は顕れない。功徳がなくなるのです。

 婦人会のご奉公者が着物を着てお給仕されるのも「心」でした。今は着物でのご奉公を少なくしましたが、それで心を失ったのではいけません。着物ではなくても、心を正装してさせて頂くのです。

 お給仕でも、丁寧さに欠ければ心を失っている証拠です。習慣は信心ではありません。いつもこれやっている、だからやっている、というだけでは「心」がなくなるのですから功徳にはなりません。

 器用に見えて横着をしている、心の向いていないご奉公振りでは御利益は遠い。そこを、しっかり肝に据えて「信心改良」を心掛けなさい。すると、必ず「なるほど、御法さまのお知らせ、お計らい、お守り、お導きが分かる、感じる」「すごい」ということになります。これをなさい、とお示しです。

 心が向いているか。心が向いていないぞ、ということを、常々に自戒して改良・実践するのです。お寺全体が、この一点で改良していく。改良し、改良し、改良し、改良して、御法さまの前で、自分の我や慢心や慣れや器用に見えて心の無いご奉公だったところを、ズバッと改良するのです。

 そうすれば必ず、見る見るうちに御法さまの御威光が増す、光りが増す。誰にとっても、「あぁ、有難い」「何という速やかな御法であろうか」となります。これが佛立宗のご信心です。真実の仏教、本物の佛立信心なのです

 心を失わない、心を曇らせない、素直に向かうから佛立信心です。心から素直な御看経が出来ているかどうか。習慣ではなく、素直に御本尊に向かい御看経が出来ない、顔も心も見ているようで御本尊に向かっていない、ということではもとより信心になってないのです。

 真っ正面の導師座に座る私も、フッと気を緩めると、御本尊から心を離した御看経になっています。夏期参詣の終了日に前後して必死のお助行が始まり、そこで改めて御宝前に向き直り、はじめて内陣の小さなゴミや点が見えるようになりました。目を瞑っていたわけではありませんでしたが、一ヶ月間の夏期参詣では見えなかった。きっと心が向いていなかったのでしょう。油断していたのです。

 御本尊・御尊像にお給仕させて頂く住職として、自分のご信心の心のなさ、足りない点を、必死のお助行を通じて教えていただいたと感得し、懺悔改良の日々でした。

 小菅久美子さんが病を得たこと。彼女が御懺悔をし、本当に素直に、正直に御宝前にお縋りする姿こそ本物のご信心でした。それは彼女だけではなく、多くの人に、信心改良の大事を教えてくれました。そして、素直に改良すれば必ずや現証の御利益が、妙法の賞罰が、あらたかに顕れることを証明してくれたのでした。

 勝手解釈のご信者は哀れです。断固としてお折伏し、信心改良を促したい。佛立信心の真の醍醐味を知らないままでは人間としての本当の価値にも気づけない。眼を開き、心を向けるのです。



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