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  新しいパターン

2007/2



 私は、ご信心をされていない方、特にご病気の方に対して、「新しいパターンを作りましょう」と提案するようにしている。悪い流れを良い流れへ、良いリズムへと導くことが、その人にとって最も大切なことだと信じているからである。

 約一五〇〇年前、天台大師は、病気になる原因を六つ挙げられた。それは、「四大(しだい)」「飲食(おんじき)」「坐禅(ざぜん)」「鬼(おに)」「魔(ま)」「業(ごう)」の六つと覚えておく。

 最初に「四大、順ならざる故に病む」とある。四大とは、人間の身体を構成する地・水・火・風の要素。地は筋骨、水は血液や血圧、火は体温、風には呼吸を当てる。その調和が崩れて病気となる、と。

 続いて、「飲食、節ならざる故に病む」。飲み過ぎや食べ過ぎ、摂食の障害によって病気となる。

 次に、「坐禅、調わざる故に病む」。「坐禅」とは、生活を行う姿勢や身儀が正しくなく、そのことから特に心の調和を失い、病を招く。

 この三点は仏教の考える冷静で臨床的な健康観、疾病観を端的に示している。医師が生活習慣病の予防や治療をする際に患者に指摘する内容と大差ない。

 続く「鬼、便りを得る」「魔の所為」は、外界からの細菌や病原による疾患や、物質ではなく手に取れない様々な現象が、外界から我が身に入って煩悶(はんもん)させ、正常な心の働きを狂わせて健康を蝕んでゆくとも指摘しているのである。

 ウイルス性の感染症のことから、心理的、精神的な病気に至るまで、全てが網羅され、指摘されている。仏教とは、一見科学的ですらあり、様々な検証を経て、普遍的妥当性の積み重ねとして継承されてきた、人間と人生と宇宙の科学といえる。

 最後が、「業の起るが故に病む」。これが仏教に於ける疾病観の結論。先述の五つが複雑に関係しながら病患をもたらすのだが、何よりも「業」を知ることが先決となる。

 別名「カルマ」と呼ばれるのが私たちが知っている「業」である。占い番組などで「カルマ的に悪い」と使われるようになり「運命」や「守護霊」のように思っている人がいるかもしれないが、全く違う。本来サンスクリット語の意味は、「行為」「動き」である。

 難しくない。この「動き」とは、例えばAからBに移動するという単純な「動き」のこと。そうした「動き」が積み重なってゆくと、一定の「パターン」を生み出す。小さな水の流れが集まって大河になるように、私たちの「動き」は蓄積されて一つの「流れ」を作り、幸不幸の「パターン」を生み出す。それが「業」「カルマ」である。

 私たちには、短い命と長い命がある。短い命は数十年で終わるが、長い命はこれまでも続いていたし、これからも続いていく。カルマは、長い命も含めて集積されてきた「動き」「パターン」なのである。

 その大きな流れは、本人が自覚している、していないに関わらず、自分から離れない。その「流れ」、「業」が立ち起こって、しつこく、思いもよらぬ病苦をもたらす、と。

 調和の取れた食生活を心掛け、心身の健康を維持する暮らし方。呼吸・体温・血圧・姿勢を整え、正しい知識のもとで工夫しながら、免疫力を高める生活に努めてゆく。その上で、六つ目の「業」に最も着目して生きるのが私たちである。

 一人一人が背負っている「業」をより良く変えることが、人々が健康的な人生を送り、病悩を克服する最たる道である。

 その「業」とは「動き」である。「動き」は「動き」でしか変わらない。だからこそ、「業」を変えるための方法は新しい「動き(行為)」を作る、始めることしかない。

 新しい動きが、最も人間らしい、宇宙の理に沿ったものであれば、今までとは違う、きれいな「流れ」を生み出す。流れは良い流れに、悪いパターンは良いパターンへと変わってゆく。

 人間にとって、欠かせないもの。欠けているとしっくりこないもの。取り戻すべきもの。最も自然で、シンプルで、気持ちの良いもの。それこそ私たちのご信心、真実の仏教、信仰のある生活なのである。

 世間の感覚からすると「宗教」という言葉すら当たらないほど、本門佛立宗の教えは、普通であり、当たり前のことである。奇を衒(てら)うことでも、変わったことでもない。スタンダードでオーソドックスな、ど真ん中の仏教である。普通の、当たり前の、生活そのものである。葬式仏教でも、新興宗教でもない。それは、最も美しい、人間らしいパターン、「動き」「行為」を教えているだけなのである。

 たとえば、感謝すること。家族や友人、諸先輩への感謝は勿論、先祖や先亡の人に感謝して生きる。ご回向や墓参りなど、人間として当たり前のことをしていない人が多いが、それでは良いパターンや流れが生まれるはずはない。

 次に「懺悔(さんげ)」。私たちは御宝前で日々に懺悔、反省できる。しかし、社会の中では自分の非を感じつつ、「私は悪くない」「謝ったら負け」と思って嘯(うそぶ)く悪い癖、風潮がある。これも本来は不自然なことであり、悪いカルマを放置することになる。私たちは、ごく自然に「懺悔」という動き、パターンを持っている。それは特別なことではなく、毎日心身のリセットやリフレッシュができるのだから、本来は不可欠なパターンで、何も真新しいことはない。ごく自然な「動き」である。

 また、「祈る」という「動き」を持たない人が余りにも多い。「健康でいたい」「病気を治して」「幸せになりたい」という「願望」はあるが、それが「祈り」という動きや行動へ昇華しない。一年に一回、初詣に神社仏閣に行って、お賽銭を投げ、パッと祈り、願いを叶えてくれる、そんな懐の広い、大慈悲の神仏はいない。断言する。

 そうではなく、日々に「祈る」という「動き」を持つことである。欲望や願いは次々に生まれるが、そのままでは行く先がない。願う場所も、対象も、祈る「パターン」もないのは「不自然」なのである。

 この三つだけでも、自分や家族の生活に取り戻してみる。すると、不思議なほど、全てが完璧なタイミングで進行していく。身勝手な信仰では迷いを深めるだけだが、オーソドックスな仏教は違う。

 本門法華経のご信心、お看経を新しいパターンの中心にすること。そうすれば、ごく自然な、人間の営みを取り戻せる。当然、病気を退け、良い流れが巡ってくる。

 変な迷信、盲信が仏教ではない。良い動き、パターンの積み重ねが幸せにつながる。あなたの家庭の中に良いパターンがあるだろうか。 無いならば、それは不自然であり、そこが問題の根本ではないか。



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