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  『ありがたい』 〜最もレアな生き方〜

2007/8



 世界中にある本門佛立宗のお寺。それがどの国であろうと、訪ねて最初に掛けられる私たちの挨拶。

「ありがとうございます」

 佛立開導日扇聖人は、「我身をかへりみ、有難う存じますると口くせの様に申せ」と御指南されている。何と素敵な教え、素晴らしい言葉だろう。

 ご信心するということは感謝の気持ちが湧いてくるということ。感謝の気持ちを抱いて生きていく、生きてゆける、ということ。このことこそ正しい仏教を正しく実践している証明ではないか。

「ありがとう」とは形容詞である「ありがたい」の連用形「ありがたく」のウ音便。感謝の意を表し、礼を言う時に用いる。

 本来、「有り難し(ありがたし)」とは「有ることが難しい」という意味で、「滅多にない」「珍しくて貴重だ」ということを表していた。まさに美しい日本語の頂点にある。

「ありがとう」を「サンキュー」と英訳するには無理がある。単に感謝を表しているだけではなく、古の時代から神仏に対する言葉、天地を司る偉大な何者かに対する感謝の心から生まれた言葉であり、時間をかけて人や状況に対しても使われるようになったという。

 平安時代に書かれた枕草子では、「舅にほめらるる婿。また、姑に思はるる嫁の君」と実に俗っぽく「有難い」ことを表現してくれている。続いて、よく抜ける毛抜きは「有難い」とか、主を謗らない従者は「有難い」、顔と心の双方が良いのも「有難い」、社会にあって少しの「疵」も付いてない人間は「有難い」などとある。段末には、「男、女をば言はじ、女どちも、契り深くてかたらふ人の、末まで仲よきこと、難し」とあるから、それこそ有難くて笑ってしまう。感謝の辞というより、貴重な存在を表す言葉が「有難い」だった。

 私たちが日常の挨拶としてまで使っている「ありがとう」には、当然ながら「感謝」と同じくらい「有ることが難しい」という意味が込められている。開導聖人は、
「あゝ有難や、まれに人身を得、適仏法にあへり」
と妙講一座の随喜段の冒頭に載せられている。人間に生まれてくることは極めて難しいことであり、稀なことであり、その稀な中でも御仏の教えに出会えたことは更に最上の「有難さ」であると表明し、私たちも同様にその「有難さ」を感じてみなさい、とお示しである。

 DNA解明の世界的権威である筑波大学名誉教授、村上和雄氏はその講演で、「人間に生まれてくることは、宝くじに一万回も連続で当選するのと同じくらい難しい」と仰った。存在そのものが難しく、生きていることそのものが貴重で、稀なことだと教えられているのだ。まさに、開導聖人の教えの通り。

 私は子どもの頃から、「ありがとうございます」とご挨拶してきたが、ごく最近になってようやく意味が理解できるようになったと思う。それまでは、単なるお寺やお家の中の「決まりごと」のように考えていたと思う。深く考えることもなく、長い時間を過ごしてきた。

 青春時代は「〜たい」と語尾は同じでも、「したい」「なりたい」という自分の欲望を満たすことに夢中だった。「有難い」と感謝するよりも、自分の幸せを喜ぶよりも、「もっと」「もっと」という意味で「〜たい」と使っていた。

 しかし、ご法さまの前に一信者として心から手を合わせ、御題目をお唱えできるようになってから、何かが変わった。様々な出来事を通して、自分の無力さを痛感した時や他人の苦しみを自分の苦しみとして感じるようになってから、しみじみと「有難い」という言葉が出るように変わってきた。

 いま、毎日お会いする人ごとに、「ありがとうございます」と口先だけではなく言える自分が嬉しい。良いことがあっても、嫌なことがあっても「有難い」と言いたい。これから先、どんなことがあるか分からない。しかし、その時でも「有難い」と言える自分でいたい。

 つまり、「有難い」とは「レア」なのだ。ステーキを注文する時に使う馴染みの英単語だが、「稀な」「滅多にない」「まれにしか起こらない」「素晴らしい」という意味。

開導聖人がお示しになった意味。口癖にしなさいという尊い教え。それを理解する一助として、私はこの「レア」という言葉を使った。

 まだ、「〜たい」と自分の欲望に任せて使っていた頃はその対象がコロコロと変わった。「勝ちたい」「成功したい」「プロになりたい」「幸せになりたい」と。その時はそれを生きる原動力にしていたし、今でもそうした「〜たい」という気持ちを全て否定する訳ではない。

 しかし、「〜たい」は「有難い」になった。それは「レアでいたい」「レアになりたい」との意味だと思うようになったのだ。単に感謝を表す言葉ではない。いま生きていることが稀少なことだと喜び、稀でいることを喜んでいるのだ。 

 そして、他の人は違うかも知れないが、最良の命の使い方をしたいと願い、求め、誓って、口々に「有難い」と言う、言ってみる。すると、思っている以上に、何もかもがさらに有難く思えてきて、レアである自分に気づいていく。父、母、友、呼吸、太陽、空気、自然、命、出会い、何よりご信心が。

 この世に生を受けていることが稀であること。数え切れない程の恩恵を受けていること。動く身体、出る言葉、使える心。それら全ては当たり前のものではなく、稀であるということ。レアであること。

 それなのに、口を使わず、足を使わず、心を使わず、使ったとしても自分のことばかりで人の為に使わず、愛する者の為に使っても、世のためには使わず、御仏の為に使わず、人も支えず、人も助けず、御弘通の為にも使わずに終わってしまっていたら、どうなるだろう。宝くじを一万回連続で当てたほどの幸運に恵まれ、「有難く」も生を受け、「有難く」も生きている自分の価値も、甲斐もないではないか。

 開導聖人は「口癖のように申せ」とお示しの御指南書の冒頭に、
「何もよし 人と生れて要法に
   あひし縁しは 有難の身や」
と御教歌をお寄せになられている。 

 愚痴や不平を言えば切りがない。それを超越してご信心にお出値いできたことを第一の喜び、果報と心得て、毎日を過ごしてゆきたい。ご信心があれば何に対しても感謝できる。自分が希少であること、レアであることを知っているから。世を見渡せば希少な存在、「菩薩」を目指して生きる自分が「有難い」。最もレアな生き方ではないか。



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