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  うれしさを忘れぬ人

2007/10



 心の中に生まれる「うれしさ」。それが佛立信心であり、佛立信心とは「うれしさ」に他ならない。

 仏教の中の仏教、本門佛立宗のご信心をする私たちは、「うれしさを忘れぬ人」をお手本にしている。「うれしさを忘れぬ人」を目標にしている。「うれしさを忘れぬ人」になれるように自分を磨いていくのが修行なのである。

 なぜか。それはなぜだろうか。「うれしさ」を忘れた人は無常を忘れた人だからだ。「うれしさ」を忘れた人は、自分の罪障、業をも忘れているからだ。「うれしさ」を忘れた人は、人のせいにしている。「うれしさ」を忘れた人は、結局慢心し、懈怠していることになる。故に、「うれしさ」を忘れた人とは、御法さまを信じてないことになる。

 だからこそ、「うれしさ」を基準にして、自分の心の内を確かめ、自分自身のご信心を見つめ直してみることが大事であると思う。

 開導聖人の御指南には、
「信心は、初心の人が自ら得たり」とある。本物の「ご信心」とは、自分から御法に近づいた初発心の人が自分自身で得るものであると教えていただくのである。

 しかし、私を含めて佛立信心を親から受け継いだ者にとっては、これは簡単ではない。「初心」の人が「自ら」「得る」という嬉しさを味わうチャンスが多くないからだ。

 乾ききった砂漠の中でオアシスを発見した初代と、そのオアシスで生まれ育った二代目、三代目では、気持ちに大きな隔たりがある。自ら探し出したからこそ水と緑に対する思いは格別なものだろう。人間とは既に手にしている幸せに対して無関心になりやすいものだ。だから後世の者は淡い余裕の中で発見者と同じ気持ちを抱きにくい。

 初心の人が自ら得るのがご信心。だからこそ、後世の者は常に初心に立ち返ることが大事なのだ。

 人気のテレビ番組に、家の中に眠るお宝を鑑定してもらうものがある。時と代を経てゆけば、家の中にある掛け軸や扁額、壺の価値が分からなくなるというわけだ。出演者はお互いに古物を持ち寄り、専門家に鑑定を依頼する。思っていたよりも高価であると判定されれば踊るように喜び、価値が低いと分かればがっくりと肩を落とす。

 ご信心でも「自ら得た」という実感がなければ、継承されてきた御軸や御額の「御本尊」の価値に気づくことは出来ないだろう。

 先月の寺報で、ほんの数ヶ月前、七月五日に信心を始めた内藤さんのお話が掲載されていた。彼女は三十九日間の開門参詣を果たし、数え切れないほど御法さまからのサイン、御利益を感得されていた。それを彼女は「家の中に御宝前がある生活。『ただいま』と言える 有り難さ」と端的に話してくれた。私はその「うれしさ」に感激した。

 これこそ、初心の人が自ら得た「よろこび」であり、率直な感想なのだと思う。私が子どもの頃、暑い夏の日の学校帰りに家に飛び込むと、母が「御宝前にご挨拶」と言うのを口うるさく感じていた。渋々と御宝前に行き、無始已来を短縮して唱え、「ご挨拶したの?」という母の声に、「したよー!」と怒鳴っていたのを思い出す。

 オアシスを見つけた方の純粋な「うれしさ」と、そこで生まれた者の気持ちの間に、雲泥の隔たりがあることを痛感した。

 開導聖人は別の御指南に、
「およそ信心ばかりうれしきものはあることなし」
とお示しになられている。ご信心をいただいたことほど、うれしいことはない、という気持ち。その気持ちのままに、うれしさを  抱いて生きていくこと、ご信心を続けていくことが、私たちの手本であり、目標であり、修行なのだ。

 もし、その気持ちが無かったり、薄れてしまっていたとしたら、 それを取り戻すために、いま 「うれしさを忘れぬ人」をお手本にして、目標にして、御題目口唱、お助行、ご奉公に、励ませていただくべきだ。それが出来たなら、必ず「うれしさ」が生まれてくる。蘇ってくる。

 仏教は智慧の宗教といわれるが、果たしてそうであろうか。仏教は哲学といわれるが、そうだろうか。

 いや、本当の、本来の仏教とは、分厚い本の中にあるものではない。孤高の高みにあるものでもない。身近で、誰もが実践・実感できる。それが御題目をお唱えすることによる「うれしさ」なのだ。

 内藤さんは既に三戸のお教化を成就された。「うれしさ」が満ちている彼女は、ごく自然に自ら得た喜びを語り、そして苦しんだり、悩んだりしている人たちをお寺にお連れしている。

御教歌
 うれしさを忘れぬ人ぞ世の中の
    人にすゝめて法を弘むる

「うれしさ」こそ菩薩行の根底に欠かせない。「うれしさ」こそが、人を思いやり、御法を弘める人のエネルギーであるとお示しなのだ。

 最近のお教化には一つの流れがある。まずは、お寺にお連れする。そして、ほんの少しでもいいから住職や教務を掴まえてお話させていただく。しかし、話に納得してご信心を始める人など少ないから、本堂まで上がって御題目の唱え方をお教えし、一緒にお看経する。

 僅かな時間の御題目口唱だが、オアシスを探している人にとっては十分なようで、みんな感激する。

 九月一日、内藤康子さんが同僚を連れてこられた。背の高いイケメンで二十六才の渡部くん。彼と一時間程お話しして、やはり本堂でお看経。その場で御本尊拝受を申し出てくれた。仕事での悩みも、自分なりの迷いもあったと聞いた。

 次の日、彼からメールがあった。そこには、とにかく三ヶ月の間、お参詣させてもらうということと、「昨日、お寺から帰るころは自分でもよくわからないのですが、 ここ何年かの自分には無かった 感覚、頭の中がすっきりしていて楽になった気分で不思議でした。ありがとうございます。渡部」と書いてあった。何とも有難い。

 内藤さんからもメールがあった。彼にお数珠を渡すのにお寺が良いと思い、会社の休憩時間に二人で乗泉寺にお参詣させていただき、二十分間お看経したことと、彼が食事中に言っていた嬉しいお話も書かれていた。涙が出た。
「昨日、家で一人でお看経してたら、外で泣いてる虫の声がだんだん同じリズムになって 虫の声が南無妙法蓮華経っていってるように聞こえるんです・・・あれ、 不思議ですよね」
と。これが御題目の御力。つまり、「うれしさを忘れぬ人」でさえあれば、あらゆる人を幸せに出来る。



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