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  信心という行動

2008/9



 人生には数多くの幸せや宝物があるように思うけれど、心の中に芽生えた「信」以上の宝物はない。逆に、「信」をもたない人ほど不幸な人はいない。

「三証」という定規がある。三つの「証明」を持たなければ信じるに値しないという宗教選択のための定規で、「道理証」「文証」「現証」の三つの証明を備えていなければ本物の仏教とはいえないと教えていただく。

「道理証」とは、その宗教が道理からして外れていないかという点。多額のお金を払わなければ救われないとか、教祖が神仏の化身とか、高額な戒名料や塔婆料なども道理に合わない。ごく普通に考えて、「どうやらおかしい」というのは、信仰の対象ではなく、正しい宗教、仏教とはいえないというのである。

 少し考えただけでも、ほとんどの新興宗教や葬式仏教は、最初の「道理証」で除外されてしまう。

 第二の「文証」とは、どれほど聞こえの良いことを説いていても、経文に裏付けがなければならないという点。時代や人心に配慮した聞こえの良い話を作っても、仏説でなければ一面を捉えた自説だ。それは当然仏教ではなく、普遍性を持たない。近年に多い新々宗教はこれである。

 最後の「現証」とは、その教えを実践して、どのような「結果」が出るかという点。第一と第二の証明を備えながら、実践してみても結果が出ないのでは意味がない。私たち人間が抱える課題の全てが、実践することでどのようになるか。どのような結果が出るか。御法の尊いことを現前で実感する、証明いただくのが「現証」である。

 お祖師さま(日蓮聖人)は、

「日蓮佛法をこゝろみるに道理と証文とにはすぎず。又、道理証文よりも現証にはすぎず」

とお諭しになられている。

 三証の中で、道理理と文証とは欠かせない証明だが、最後にある「現証」こそ欠かせない、有難い、尊い証明である、と。

 現証の御利益が最も大切である。上行所伝の御題目をいただいて、ご信心させていただくようになり、悩みが晴れる、事業が発展する、仕事や人間関係が上手に回り出す。病が癒え、良い御縁をいただき、穏やかになり、爽やかにもなり、軽やかになる。こうした「現証の御利益」を日々夜々に聴聞して、感得できるのが真実の仏教である。

 しかし、その「現証の御利益」の中で、他に比べようもないほど尊いものが、「あなたの心にご信心が起きた」ということなのですよ、と教えていただく。

 ご信心で御利益をいただけた、御利益でご信心が起きた。どちらが先にせよ、正しい信仰が起きたことが、最高最上の御利益なのだ。この意味は何よりも深い。

 うつ病を患っている方々の中に、このことを顕著に感じる例がある。心のエネルギーが抜け落ちた状態、「信じる心」「信じられる人、モノ」がなくなり、何事も選択できなくなる。自分すら信じられなくなり、徐々に選択肢が狭まってしまう。「オール・オア・ナッシング」の状態になり、仕事を辞めるしかない、離婚するしかない、死ぬしかない、と思い込んでしまうという。

 たくさんの方々のお話を聞き、ご奉公を重ねる中で確信するのは、心の病の特効薬は「信心」であるということだ。

 人間は、「信じる」ことで生きていける。「信」という心の働きが、人生を心豊かなものにする。もし、この「信」が失われると心はバラバラになる。何も出来なくなる。

 信じなくても良いものを信じていると、些細な出来事をきっかけにして「信」は脆くも崩れ去ってしまう。三証が備わることもなく、次々に移り変わる対象を心の柱としていたなら、柱が倒れてしまうことも起こり得るだろう。

 だから、人間が信じるに値する当宗の教え、「御法」を信じていただきたいと思うのだが、心の病を患っている方に対して、「信じる心を持とう」と言っても、無理な話で、簡単にできるものではない。

 いくら「信じる心」が大切でも、「信じなさい」と言われて「信」という心の機能が働き出すならば苦労はしない。時間を費やしても、信じなさいと強要しても、「信」は起こらないだろう。それが心の病の特効薬としても、である。

 私たちのご信心、本物の仏教は、ここでも有難い。

 「信とは行なり、行とは口唱なり」。「信じる」とは心の中の働きだが、それは同時に「行い」「アクション」でなければならない、と。行動の中にこそ「信」があり、その「信」の「行動」が「口唱」なのである。信を失い、心の中の悪循環を繰り返してしまう方々に、「信」を取り戻していただく具体的、実践的な方法が、「南無妙法蓮華経と御題目を唱え重ねること」という「行動」「アクション」なのである。

 素直正直に、色や味を加えず、御本尊の御前に座って、御題目を共にお唱えする。ただお唱えする。できるのならば、思いをご祈願に代えて御宝前に言上させていただければいい。少しずつ、少しずつ、心の中に信が蘇ってくる。しかも、その「信」は、世にたとえようもない宝である。他に比類することもない本当に信じるに値するものなのである。私たちの人生の中で、これほどの幸せはない。

 御教歌に、
「信心のおこるばかりの御利益は 世にたとへなきたから也けり」
とある。個人の欲望を満たすためだけに御題目の御力があるのではない。病気治しの信心ではないと教えていただくのは、ここである。全てのご奉公、菩薩行の行き着く先に、「正しい信」を起こさしめて、その人に最高最上の宝を手渡し、真の幸せに導くという目的がある。「正しい信心」が起きなければ、その人は未だ闇の中にいる。何才であろうと、臨終の際にいようと、「信」を持てたか否かこそが大切なのである。

 真実の仏教の帰結とは、「信」の一字であり、その「信」は御題目口唱の一行、「アクション」「行動」であると教えていただくのです。事実、この信心という行動こそが、不安定さを増す末法という社会で、戒律や禅定という修行では成果も得られないほど過酷に生きる人々にとって有効な修行であることは疑いありません。神経内科の療法や、自律神経失調症の治療法より有効であることは間違いありませんが、これは理屈ではありません。

 信心とは行動であることを知り、御題目口唱、お参詣、ご奉公にと前向きに実践することが大切です。行動の伴わない仏教はありません。



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