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  人間をあきらめない

2009/4



 佛立研究所・佛立教育専門学校の研究発表大会で特別講演として東京都墨田区立文花中学校・夜間学級嘱託・見城慶和先生にお話をいただいた。

「夜間学級」とは、戦争の爪痕が色濃く残る中、働きに出されたり家の手伝いに追われて昼間の学校に通えなかったりした子どもたちのために開設された学校。当時は学齢が主だったが、現在は様々な理由から教育を受けられなかった人たち、十五才から九十一才まで、国籍や年齢を問わず多くの方々が学んでおられるという。混迷する日本の教育、追い詰められた生徒たちや戸惑う指導者たちを前に、「夜間中学」は注目を集めている。

 その第一人者である見城先生が、『学ぶ楽しさ、素晴らしさ 〜夜間学校での出会いや学びから〜』と題してお話してくださった。まず驚いたのは、その柔らかい口調、心地よい声のトーン。

「こんばんは」ではじまる学校。見城先生は戦後まもない頃、不安を抱えた生徒たちに希望を与えた担任の女性教師に感動して、教師への道を目指されたという。激動の戦後社会。日本を憂い、平和や差別の無い社会を願って苦悩し、安保闘争にも身を投じた。しかし、そこで挫折し、教師への道も諦めようとしていた時、この夜間学級に出会った。

「こういう憲法違反の学校があるから、子どもたちが昼間の学校に行かなくなる」と憤慨して見学に行ったところ、学びたくても学べない人たちが、ここで生き生きと勉強している姿を見て心を打たれ、自ら求めて夜間中学の教師となり、以来四十二年間もの長きに亘ってこの教育現場の道ひと筋に歩んでこられた。

 夜間学級での出会い、生徒たちとのふれあい、そこで感じられた人間の可能性について教えていただいたように思う。人間は、一人一人違う。生きる速度も異なる。学ぶ速度、気づき、成長する速度も異なる。そうした生徒一人一人に寄り添いながら、教師と生徒の間に「感動」が生まれていた。

 特に、見城先生の人間への深い洞察と信頼、慈しみの心は、心を閉ざした数多くの少年たちを支え、育ててきたと知った。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を口ずさんで、演壇で優しく歌い出される姿に、何ともいえない親しみや温かさを感じる。それは、「菩薩の誓い」を立てた私たちが目指す「心から、声に、顔に、行動に表す菩薩行」のお手本のようにも思える。

 世の矛盾に憤り、理想に燃えた反骨の青年時代。そして、何度も挫折や失敗を味わいながら、人を慈しみ、向き合い、教え、導いていくことの大切さを知り、実践してこられた人生。私たちのご信心、菩薩行に、それは相通じると思う。

 人間は変われる。人間への信頼。人間への飽くなき働きかけ、それこそ『教育』であり『教育者』の原点、出発点でなければならないのだと感じた。

 同時に、人間を諦めないこと。人間を諦めなければ人間への機会を奪うことはない。人間の可能性を信じれば、人間への働きかけを止めることはない。人間に対して働きかけ続けること。人間は絶対に変われる。まさに、仏教である。

 私たちは、自分の尺度や自分の都合だけで、相手を非難したり、見下したり見放したりすることがある。時間には限りがある、物事には限度がある、といえばそうだ。家庭でも仕事でも、許されることにも限度がある。

 しかし、相手を非難することはたやすい。門を設けて退けるのも、相手を突き放すのも、烙印を押すこともできるが、長い目で見れば何かが欠けているように思う。

 人間への愛や信頼。人間とは、圧倒的に愚かな面も持っていて、そうした部分を見ていると戸惑うこともあるが、それでも、いつかその人も分かってくれるはずだ、変わるはずだ、気づくはずだ、と可能性の部分を信じることが出来なければ、いつか自分まで信じることが出来なくなると思う。

 こちらが諦めてどうする。永遠に、人間を諦めずに、働きかける、接していく、教えていく、待っている、共に動き、共に考えていく。それこそ、真の仏道、菩薩行実践ではないか。

 一人が変われば世界が変わる。諦めたら何も生み出せない。投げ出してしまったら、何も生み出さない。変な期待感でも駄目だろう。期待が強すぎれば見返りを求める。相手を変えたいと思う以上に自分を変えなければならない。自分が向き合う姿勢を変えなければならない。自分が変わり誰かを変える。誰かを変えようと努める。人間を諦めない。ずっと働きかけてゆく。

 精一杯の働きかけを続けること。その人に届くには時間がかかり、通じないこともあるだろう。逆に暴走し始めることすらある。期待を裏切り、気持ちを踏みにじられることもあるかもしれない。

 しかし、相手は相手。その人の果報、罪障、カルマ、流れ、能力、環境、いろいろと違う中で生きている。とにかく、こちらが最大限の努力を払うということ以外に、何の道があるというのか。逆に、また相手を恨むか、切り捨てるか、世を恨めばいいのか。投げだし、傷つければいいのか。いや、違う。それでは、自分が不幸になる。

 万物の霊長といわれる人間には、無限の可能性があると同時に悪魔のような愚かさがある。人間は、菩薩にもなれるが、鬼にもなる。素晴らしく、恐ろしい。その内にある可能性を信じて、そこに種を植え、そこを耕し、発芽させて、育ててゆこうとする。諦めずに、働きかけを続けていく。そう教えていただくのが仏教であり、実践するのが佛立菩薩の私たちだ。

 開導聖人の御指南、
「『心の鬼が地獄へ連れ行き、心の菩薩が寂光へ導く』ということ、この一句を口ぐせの様にいいなれて、よくよく味わいて、御法門聴聞に行く道々にも心にたくわえ、御看経の時にも忘れず、朝起きても一番に思い出し、一日暮れて夜臥(ふ)す折にも、『心の鬼が地獄へつれ行き、心の菩薩が寂光へ導く』と、一日、二日、三日、乃至、一年、十年、一生の間忘れざれば、臨終の時には心の菩薩が寂光へ導かせたもうものなり。御臨終の夕べには、日蓮必ず御迎いにまかり向かうべしとはこれなり」

 働きかけを続ける自分自身も、愚かな、恐ろしい面を持っている。自分だけが正しいことなどない。自分も共に学ぶ。お互いに誰かの働きかけが必要なのである。

 御題目を唱え重ねて、鬼を止め、菩薩を育てる。人間を諦めない。



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