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イスラエル渡航記 第13話 「ユダヤ・クォーター」

長松清潤 記


 「ハラム・アッシャリフ(神殿の丘・高貴なる聖域)」。中東問題の究極の焦点。城壁で囲まれた旧市街の東南部に位置し、旧市街の6分の1を占める区域。その聖域の帰属は、選民意識や排他思想を持つ宗教同士が真っ向から対立している以上、第三者の政治的な介入を持ってしても双方が完全に納得する解決に至るまで想像を絶する時間を必要とするでしょう。世界の平和を考えれば、その努力を惜しむわけにはいきません。

 しかし、何度も指摘しているように、第三者が第三者ではないという政治的な現実が問題です。中東民主化という理想を掲げても、ユダヤ票と五千万票といわれる福音派に左右される超大国、米国政府や議会の主導で何処まで聖地の帰属を巡るパレスチナの和平が実現するか。近代史を振り返れば、英国やフランス、ロシアですら第三者に成り得ないのですから、私は全く違う視点から日本の役割、特に日本で興隆した仏教、真実の仏教、本門佛立宗の信徒に大きな役割があるのではないか、と夢のような希望を持っています。実際、ブッシュ政権主導の現段階の和平案は、歴史的に聖地の帰属を含めた「オスロ合意(93年9月)」からひどく逆行し、曖昧になっており、第三者に成り切れない仲介の難しさを露呈しています。

 嘆きの壁を後にして、私はユダヤ・クォーター(ユダヤ人地区)への階段を上りました。階段の途中で、女性が大声で何かを叫んでいましたが、もはや気にならなくなっていました。このユダヤ・クォーターの土地は旧市街にある「ムスリム・クォーター」「クリスチャン・クォーター」「アルメニアン・クォーター」という四つの地区の中でも、「民族浄化」された唯一の区域といわれています。1948年当時はわずか20%がユダヤ人の所有で、80%がパレスチナ人、特にワタフ(イスラム財団)の所有でした。イスラエル当局の強制接収でブルカンという大地主は私権の侵害を主張し、イスラエルの裁判所に提訴を行いましたが、10年近い審理の末に最高裁判所は、
「私的な所有権という面では原告側の主張は正しいが、ユダヤ・クォーターのユダヤ性を保持する公益を優先して考慮する」
という判断で結審されてしまいました。現在、100%がユダヤ所有。さらにムスリム・クォーターへのユダヤ人の割り込み入居も続いており、80年代から右翼系のユダヤ人家族60世帯が所有権や借地権を購入し住んでいます。アラブの商店街の上にシャロン首相が購入した家もあり、燭台が掲げられていました。奪ったものは共有、固有のものは専有というイスラエルの占領地返還を巡る姿勢が伺えます。

 嘆きの壁から聖墳墓教会へ行くためにはユダヤ地区からアラブ人の商店街を抜けて行きます。僅か700メートルくらいの距離ですが、寄り道をしながらゆっくりと歩きました。

 6世紀に書かれた世界最古のマダバ地図にも描かれていたカルドーというエルサレムのメインストリートの遺跡がありました。135年にハドリアヌス帝が廃墟の上に建設したと言われ、十字軍の時代にも商店街が軒を連ねていた場所といいます。私の歩く道から5〜6メートル下にあり、道幅の広い舗装道路と古い列柱が遺されています。ネコの糞の臭いがきつい地下街。このカルドーの近くのカフェで、私服の少年が自動小銃を背負っていた光景が妙に印象に残りました。

 続いて、第一神殿時代のエルサレムの模型が飾られているというラケル・ヤナイ・ベン・ツヴィ・センターに入りました。ここには円形劇場のような客席があり、座って説明を聞き、模型がライトアップされビデオが流される、という演出があるということでした。待っていると、約30人の女子学生がゾロゾロと入ってきて、一番奥まで詰められて、抜け出せなくなりました。ここはスタディ・センターにもなっていて、彼女たちはヘブライ大学の学生なのです。先生まで入ってきて、講義を始め、結局彼女たちと一緒に30分以上も着席したままユダヤ人のワークショップに参加することになりました。先生が何度も学生に質問をするので、一人でポツンと座っている東洋人の私に質問が回ってきたらどうしようと汗をかいてしまいました。極めてユダヤ寄りのエルサレム史。さらに、こんな小さな教室で流される映像が、ハリウッドを代表する、かのスティーブン・スピルバーグ監督が制作したものであると聞き、驚きました。彼もユダヤ人であり、エルサレムへの思いは強烈なのでしょう。3Dの眼鏡を駆使して、確かに凄い映像でした。

 ようやくギュウギュウに詰め込まれた劇場から出てきましたが、ちょっと複雑な気持ちになりました。放映され、説明された内容は、エルサレムを中心に自分の民族が経てきた血で血を洗うような争いの歴史について。それを、綺麗で可愛い若い女学生たちが熱心に聞いていたのです。どのような意識が彼女たちに芽生えるのでしょうか。

「お前のお爺ちゃんたちは、隣の家の人に殺された」

と聞いて、人は何を考えるでしょう。

「お前の先祖は、何度も追い出された。戻ってきたけれど、また虐げられた。そして、ようやく強い国家として建設されたのが、イスラエルである」

と教えられて、どのように感じ、どのようにパレスチナ人を、他の民族との融和や融合を考えられるのでしょうか。

 私はアラブ・クォーター、商店街を歩いて聖墳墓教会へと向かいました。歩いていると、
「コンニチワ!」
と明るくアラブ人が声を掛けてきます。私がエルサレムにいた間には日本人と出会えなかったのですが、昔は日本人巡礼者が彼らの上客だったのでしょう。

 夕方、またアザーンの声が響き渡るムスリム・クォーターの中で、聖墳墓教会に到着しました。この場所こそ、この旅の最大の目的地なのでした。


(妙深寺報 平成17年3月号より)