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本物の救いを求める人へ





◆三世にわたる救い

 いま、このページをご覧になっているあなたは本門佛立宗のご信者であるなしにかかわらず、大なり小なり信仰とかご信心というものに関心、興味を懐いておいでになると思う。
 そこでお尋ねしたいのだが、他の宗派、教団はさておき、本門佛立宗は人々にどのような救いをもたらそうとする信仰かご存知であろうか。
 病気の平癒
 商売繁盛
 災難除滅
 家内円満・家内安全
 等とお答になった方、すべて正解である。

 本門佛立宗は、いわゆる既成教団のようにお葬式や檀家廻りといった死者儀礼、回向を専らとする宗団ではない。もちろん佛立宗は亡くなられた方にたいするご回向も大切にしている。が、それ以上に生きている人々にさまざまな救いをもたらそうとする宗旨である。
 本門佛立宗のご信心に出会うことによって、医者が手を離したような重病を治していただいた人、事業・商売を立ちなおらせた人、不思議なご加護をいただいて九死に一生を得た人、幸せな家庭生活を築き上げた人は数限りなくおられる。
 しかし佛立宗が人々にもたらそうとする救いはそれだけにとどまらない。佛立宗は、人々の過去世と現世と未来世の三世にわたる救いをもたらそうとする宗旨なのである。
 では三世にわたる救いとはなにか。
 現世の救い、これはわかりやすい。先ほど挙げたように重い病いを治してもらったり、経済的によくなったり、人間関係のトラブルがなくなったりして、幸せになっていく、これが現世の救いである。
 では過去世、未来世の救いとはいったいどんな救いなのであろうか。


◆過去世の救い

 わたしたちの生といものは一回限りのものではない。何千年、何万年もの昔からわたしたちは生れ変り、死に変りしつつ今の生があるのである。そしてアメリカの医師、ブライアン・ワイス博士やカナダの医師、ジョエル・ホイットン博士が実証してみせたように、わたしたちが過去世、すなわち前世でなした行いは、すべて今のわが身に、人生に、善かれ悪しかれ、なんらかの報いをもたらす力、すなわちカルマ(業)となって持ちこされているのである。
 こうしたさまざまなカルマの中で、今生に災いや不幸をもたらすカルマのことを仏教では罪障とも呼ぶ。
 わたしたちは前世において「貪」、すなわちわが欲望を満たすことだけにあくせくし、「瞋」、すなわち人を憎悪し、「痴」、すなわち人を疑い、妬み、物事を悪く曲げて受けとめるという、間違った生き方をくり返してきた。そうした身体と口と心にわたる行いが罪障となって、今、わたしたちの心の奥にこびりついているのである。
 この心の奥にこびりついた罪障という汚れは、いかに賢く才能のある人であっても、自分の力で取り除くことはできない。ではどうすれば罪障を消滅させることができるのか。その方法を教えてくださったのがお釈迦さまであり、日蓮聖人である。
 お釈迦さまはこんなふうに説いておられる。
 「我、昔造りたる所の悪業は、皆、無始よりの貪・瞋・痴によるものにして、身と口と意より生まれたるものなり。一切を今、懺悔す」
 そこで、佛立宗では勤行のたびごとにまず「無始已来法罪障消滅」とお唱えして、御宝前(御本尊)にたいして懺悔の心を表明させていただくのである。
 日蓮聖人はこんなふうに説いておられる。
 「琥珀は塵をとり、磁石は鉄をすう。我等が悪業は塵と鉄との如く、かく思いて南無妙法蓮華経と唱うべし」
 そこで、佛立宗では懺悔の思いをこめて、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えて、御題目に備わる強力な浄化力によって罪障を取り除いていただくのである。
 こうして前世において積み重ね、そして今生に持ちこしてきた罪障という借金をきれいさっぱり返済させていただく、これが過去世の救いである。


◆未来世の救い

 では未来世の救いとはいったいどんな救いか。
 わたしたちは遅かれ、早かれ死を迎える時がやってくる。死を迎えると同時に霊魂は肉体を離れるのだが、霊魂はいったいなにを自分の財産、宝として次の境界、未来世に持っていくことができるのであろうか。
 お釈迦さまは次のようなたとえ話を説き残しておられる。

○  ○  ○

 ある国に一人の大金持の男が住んでいた。
 この大金持の男には四人の妻がいた。男は四人の妻の中でも第一夫人を最も愛し大事にした。男は第二夫人も第一夫人にかわらぬくらい愛していた。そして第三夫人も大事にしていた。が第四夫人にはあまり愛情をかけなかった。ほとんど眼中にはないといった扱いをしていた。
 さて、この大金持の男、わけあってどうしてもよその国へ移り住まねばならないことになった。
 そこで男は第一夫人に、
 「わたしは、お前を最も愛し大事にしてきた。だからわたしといっしょに他国へついてきておくれ」
と頼んだが、第一夫人は、
 「いえ、わたしはあなたとこの国でいっしょに暮らしましょうとは申しましたが、よその国へ移り住むなどという約束はいたしませんでした」
と断わられてしまう。
 そこで男は第二夫人に頼んでみた。すると第二夫人は、
 「第一夫人がいっしょに行かないとお断わりになったのに、どうして第二夫人のわたくしがついていかなくてはいけないのですか」
 とこれまた男の頼みを拒否する。
 それではと男は第三夫人を連れて行こうとするが、第三夫人も、
 「いえ、わたくしもよその国まではいっしょに移り住むことはできません。でもせめて国境まであなたをお見送りいたしましょう」
 という返事。
 こうなったらいたしかたない、第四夫人に頼むしかない、しかし彼女には日頃あまりやさしくしてやらなかったことだし、ついてはきてくれぬだろうと、男はなかばあきらめ加減に頼んでみたところ、
 「はい、わたくしは喜んであなたにお供し、どこへでも移り住みましょう」
 と意外な返事。
 こうして男は第四夫人をともなってよその国へ移っていった、というお話である。

 さて、この大金持の男はいったいだれのことであろうか。このわたし自身のことであり、あなたのことである。わたしたちが最も愛し大事にしている第一夫人、それは自分の肉体、身体である。人間、だれしも自分ほどかわいいものはない。自分とは自分のいのちであり、肉体である。他のだれよりもわが身の体調を気づかい、自分の身体を着飾ることや、おいしいものを食べることをなによりの喜びにして生きている。
 では第二夫人とはなにか。財産である。お金や土地や宝石、貴金属である。そして第三夫人はなにをたとえているかというと、自分の子供である。
 男がよんどころない事情でよその国へ移り住まなくなったというよその国とは、あの世、死後の世界のことである。
 わたしたちは死んでからも自分の肉体を持っていたいと願う。けれども肉体という第一夫人はあの世へはついてきてくれない。
 第二夫人である財産も手離さなくてはならない。
 第三夫人である子どもはどうかというと、国境まではいっしょにお供してくれる。つまりお葬式をしてくれ、火葬場までは見送ってくれるが、ここで別れなくてはならない。
 ところが、第四夫人だけは「君といつまでも」と言ってくれた。その第四夫人とはいったいなんであろうか。
 お釈迦さまはこう説いておられる。
 「王位たりとも、命の終る時に臨んでは、随う者は唯、戒と、施と、不放逸のみ後世の伴侶となる」
 「施」と「戒」と「不放逸」、この三つの心がけによってわが魂に染めつけた功徳のみが、死後も離れず、自分の未来世を救ってくれる宝となるのである。
 戒とは、身を、口を、心を慎むことである。人を苦しめるような行いをしない、悪口、愚痴、不平を言わない、人を嫉んだり憎悪したりしない、これが戒である。
 施とは、人を喜ばせ、幸せにしようとする心がけのことである。
 不放逸とは、善根功徳になることを継続していくことである。
 本門佛立宗は、なにが未来世の幸せを築くための戒であり、施であり、不放逸であるかを正しく説き導かせていただいているご信心なのである。


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