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現代人のための、仏教の修行とは?




 仏教では身・口・意の三業といって、身業すなわち身体を動かすことだけが行い行為なのではなく、口業…すなわちしゃべることも、意業…すなわち心を働かせることも行いとみます。ですからご信心修行にも当然、身体を使っての信心修行、口を使っての信心修行、心を使っての信心修行があるわけです。
 そこで、この身・口・意の三業のどこに重点を置く信心修行がわたしたち現代の凡人、凡夫にとって最も有効で効果的な信心修行になるかを考えてみましょう。



身体、心だけを使った修行

 まず身・口・意の三業の中の身業、つまり身体を使っての信心修行ですが、これにはどんな行があるでしょうか。
 たとえば滝に打たれる修行があります。あるいは何日間も睡眠をとらず、食を口にしないでお堂に閉じこもるという修行があります。もっとすごいのになると千日間もの間、毎日山から谷へ、谷から峰へと何十キロもの道をただひたすら歩くという千日回峰行なんていうすさまじい修行もあります。
 こうした身体を使っての難行苦行は、よほど体力に自信のある者でないと実行不可能です。凡人にはあまりにも苛酷すぎて命すら落としかねませんし、第一、こうした修行に費やす時間がありません。
 では心を働かせる修行はどうでしょうか。瞑想によっておのが心を静め、心の奥に眠っている仏性という清らかな心を磨き顕すという修行は、これまた凡人には適さない修行です。
 わたしたちの心の奥には無意識の世界といって、自分自身でもうかがい知ることのできない闇の世界が広がっているのですが、いくら瞑想にふけってみたところで、凡夫にはおのが心の無意識の世界をコントロールすることはできません。いや、無意識の世界どころか、自分でうかがい知ることのできる表層の心だって、わたしたちはコントロールしかねているのです。腹を立ててはならぬと思いつつもついカッとなり、これ以上食べるとまた肥るとわかっていながら、ついおかわりをし、やめようと思いながらも、ついタバコに火をつけてしまうのですから。
 というわけで、意業中心の修行もわたしたち凡夫には不向きなのです。


だれにでもできる修行

 では、口を使って行う修行、つまり私たち佛立宗の信心修行である、南無妙法蓮華経の御題目口唱はどうでしょうか。
 これなら三歳の子ども、九十のお年寄りにもできる修行です。それにいつでも、どこでも行うことができます。たとえば道を歩きながらでも、手仕事をしながらでも、唱えようと思えば唱えることができます。
 そういうわけで高祖日蓮大士はわたしたち凡夫に「南無妙法蓮華経」と口に出して唱える、口業正意の行を伝えひろめてくだっさったのです。
 ところで、いつでも、どこでも、だれでもできるという点では、御題目を心の中で唱えることもさしてむずかしい修行ではなさそうです。それなら、ことさら声を出さずとも、心の中で「南無妙法蓮華経」と唱えておればよいではないかと思われる方があるかもしれませんが、御題目はやはり声に出してお唱えすべきなのです。以下、そのわけをお話ししましょう。


五根を使う修行

 佛立宗のご信心の大事な目的の一つは、仏の悟りの功徳の備わった「南無妙法蓮華経」の七字を我が心の奥底(アラヤ識と呼ばれる)に植えつけ(これを下種という)、心を浄化、功徳化することにあります。
 その場合、御題目を心の中だけで唱えるのと、声に出して唱えるのとでは、どちらが強くアラヤ識に下種されるでしょうか。
 わたしたち人間は耳で話や音を聞き、眼で物を見、鼻でにおいをかぎわけ、口でしゃべり、味わい、体で快・不快・寒暑を感じ、心で認識、判断します。こられ人間に備わる六つの機能のことを仏教では六根(耳根、眼根、鼻根、舌根、身根、意根)と呼ぶのですが、アラヤ識という心の深層部に何かを送り込み、植えつけようとする場合、六根の中の一根だけを使うよりも、二根、三根を同時に使う方がより効果的なのです。
 ですから御題目も心の中だけで念じ、唱えているのは六根の中の意根(心)のみをつかっているわけですから、御題目のアラヤ識への送り込まれ方、植えつけられ方があまり強くありません。
 ところが御題目を声に出してお唱えしますと、まず舌根を使います。御題目の音声を我が耳で聞いて耳根を働かせます。もちろん意根も働いています。その上、目で御本尊を拝見すれば眼根も働かせますし、木琴、拍子木を打ち、あるいは手でヒザをたたいてリズムをとれば身根も使っていることになります。
 というように御題目を声に出してお唱えしますと、同時に四根、五根を使うことになり、それだけ強く御題目の功徳力をアラヤ識に下種することができるのです。ですから御題目はやはり心の中で念じるのではなく、声に出してはっきりとお唱えし、我が耳で聞くようにさせていただくべきなのです。
 開導聖人はつぎのように御指南くだされています。

「一心に妙法五字を、口に唱へ、心に納め候へば、心田に仏種をうえ奉りたるなり。是を下種と申候」(大阪状 扇全3巻106頁)


唱え重ねてこそ修行です

 御題目は一度に何百回も何千回もくりかえしお唱えしなくても、まごころさえこもっておれば十辺程度でもよいのではないか、とおっしゃる方がいます。
 なぜ佛立宗は御題目を一辺でも数多く唱えよと勧めるのでしょうか。その理由の一つは、数多くお唱えしなければ修行にならないからです。
 仏教でいうところの信仰、信心とは修行のことです。お相撲さんも、野球選手も、マラソン選手もケイコ、練習を重ねなければ決して強くも、上手にもなりません。ご信心も同様、修行とケイコ、練習があってこそ、心も磨かれ、ご利益、果報も頂けるのです。
佛立宗は、
「有智無智をきらわず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(日蓮大士 報恩抄 昭定1248頁)
 とのご聖訓に基づき、御題目口唱を修行の根本にしています。その場合、十辺や二十辺、時間にして一分足らずの御題目口唱で修行になるでしょうか。お相撲さんはたとえ横綱になっても毎日、何十回、何百回とテッポーをし、シコを踏み続けています。野球選手は毎日、何時間もかけて何十回、何百回と投球練習やバッティングを続けています。マラソン選手は明けても暮れてもただひたすら走り続けています。
 「題目は千遍よりは万遍と 唱えかさねて妙をしる也」(御教歌)
と開導聖人もおさとしくださっているように、御題目もスポーツのトレーニングと同様、一辺でも多く功徳を積み重ねることによって果報、ご利益を頂くことができるのです。
 御題目を数多くお唱えすることは同じことのくりかえしではないかと思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。御題目口唱は、くりかえしているのではありません。御教歌にもお示しのように、唱えかさねているのです。ですから百辺お唱えすれば百辺分の功徳、千辺は千辺、万辺は万辺の功徳と、それだけ功徳を我が心に積み重ねたことになるのです。

 開導聖人御指南
「凡愚の心得誤りて、唯一遍唱えたれば一期生あとは唱えずともよしと考えたるは大なる誤り也」
(開化要談・宗 扇全13巻365頁)


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