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真実の仏教・佛立宗





仏教の最高峰「法華経」

 仏教は今から約2600年前、インドに生まれた聖者、シャカムニ・ブッダの教えを核にした宗教ですが、今日では、たとえば日本だけでも、何百という宗派に分かれています。

 何百という宗派が生まれるにいたった最大の理由は、仏教には数多くのスートラ(お経)があるからです。ブッダは約50年間にわたって、さまざまな人々に教えを説き続けました。そして、ブッダが各時期、各地方で説かれた教えは、のちにそれぞれが一つのまとまりを持ったスートラ、すなわちテキストとして編纂されていきます。こうしてブッダの説いた教えは数多くのスートラとなって残され、伝えられてきました。各スートラに盛り込まれた教えの内容は一様ではありません。一つ一つのスートラごとに、何を信じ、どのような修行をし、どのように物事を見、考えたらよいかについてのブッダの教説はまちまちなのです。スートラによって教えの内容に大きな違いがあるのは、ブッダは、その人その人の抱いている悩み、置かれている状況、能力などを考慮され、それぞれにふさわしい教えを説いていかれたからです。

 ブッダ入滅後、仏教はインドから中国へ、東南アジアや日本へと伝わってきますが、その間に、どのスートラを最も重要視するかについての見解の相違から、仏教者たちの間に派が生まれ、それが次第に多くの宗派となっていったのです。

 では、本門佛立宗(以下、佛立宗と略す)はどのスートラを依りどころとしているかというと、法華経というスートラです。法華経という経典は、古来、宗派を越えて最も多くの人々から尊重されてきた教えです。たとえば今から約八百年前に活躍した禅の大家、道元も「法華経はすべてのスートラの王である」と言っています。近年では著名な歴史学者、アーノルド・トインビー(1889〜1975)が、21世紀へ残すべき書として10冊を挙げた中に、仏教の聖典からは法華経を推選しています。

 このように古来、法華経を研究し、法華経の教えに従って信仰してきた人たちは沢山いたのですが、法華経の真髄をつかみ、法華経の教えに基づく正しい信仰、修行のあり方をわたしたちに教えてくださったのは、今から約750年前に活躍した偉大な宗教者・日蓮聖人でした。


「佛立宗」とは?

 本門佛立宗とは、法華経と日蓮聖人の教えを依りどころにして、長松清風という僧が今から約150年前に開設した宗派です。長松清風師をわたしたちは日扇聖人とお呼びしていますが、日扇聖人は仏教改革を志されて佛立宗を開設したのです。

 日本は17世紀初頭から250年間にわたって江戸時代と呼ばれる、徳川将軍の支配する時代に入ります。この間、仏教は幕府の統制下におかれ、仏教各派の活動もすっかり沈滞してしまいます。僧侶はただ葬式の導師をつとめ、死者の霊のために祈ることを専らとするようになりました。日扇聖人が活躍したのはこうした状況の続く江戸時代の末の頃から明治と呼ばれる天皇を中心とした新しい政治体制に入った時期でした。

 日扇聖人は当時、学者、文化人としてその名を馳せていましたが、母の死をきっかけに仏教に関心を向けるようになりました。そして32才の時、法華経の教え、日蓮聖人の教えこそ真実の教えとの確信を得て僧となり、41才の時、開いたのが佛立宗なのです。

 現在、佛立宗のお寺、別院は日本国内に約300、ブラジルに10、韓国に6、アメリカ2、台湾1とあって、約50万人の信者の心のふる里、教えを聞く場となっています。


佛立宗と他の宗派との違い

 ところで、法華経、そして日蓮聖人の教えを信奉する宗派は佛立宗だけではありません。日蓮宗とか法華宗といった伝統教団や創価学会、霊友会、立正佼成会といった新興の教団も法華経や日蓮聖人の教えを依りどころにしています。佛立宗とこれらの宗派とはいったいどう違うのでしょうか。

 まず、佛立宗と創価学会の違いですが、彼らは日蓮聖人をブッダより上位に置き、あたかもキリスト教におけるゴッド(神)のようなかたちの崇拝をしています。もちろん佛立宗でも日蓮聖人を心より敬ってはいますが、日蓮聖人はブッダの真実の教えを伝える伝道者、私たちにとっての偉大なる指導者ではあっても、本尊そのものではないというのが佛立宗の立場です。

 創価学会は別名、池田教といわれるように、池田大作という人が教団の頂点に君臨しています。何十人もの議員を国会へ送り込んで、政治権力も握り、何百万人もの信徒を号令一つで動かすほどの絶対的権力を持っているのですが、わたしたちはこうした教団のあり方に危険性を感じています。

 それから伝統ある教団についていえば、どの教団も一様に死者にたいする儀礼をもっぱらとし、生きている人々に教えを説いて導くという宗教的使命感をもはや喪失してしまっています。また、創価学会以外の新興宗教についていえば、本来、法華経や日蓮聖人の教えにはない民間の俗語や占いを取り込み、とてもまともな仏教教団とはみなすことはできません。


仏教とキリスト教の違い

 仏教とキリスト教はいくつかの大きな違いがありますが、大きな違いの一つは仏教はプラクティス(修行)があるという点です。自分の身体と口と心を使ってプラクティスを行ってこそ、信仰の成果、メリットは得られるのだというのが仏教の基本姿勢です。

 仏教のプラクティスは大きく分けて心を中心としたプラクティスと口を中心としたプラクティスがあります。心を中心としたプラクティスというのは、自分で自分の心のあり様を観察し、邪悪な心をコントロールし、我が心の奥底に潜む仏性を瞑想によってめざめさせようといういき方です。これにたいして口を中心とするプラクティスというのは、スートラや仏の名を口に称え、スートラや仏の名にこめられた力を我が身、我が心にそなえようといういき方です。

 では佛立宗はどちらのプラクティスをとるかといいますと、口を中心としたプラクティスを重んじます。よほどすぐれた能力、智力を備えた人でないかぎり、自分で自分の心をコントロールしたり、瞑想によって仏性をめざめさせることはむつかしいことですし、中途半端にこうしたプラクティスを行うことは、かえって心を混乱させ、身心に障害をもたらす結果を招くことになるからです。そこで、佛立宗は口を中心とした修行を重んじるのですが、他のセクトのようにスートラを誦したり、仏の名を称えたりはせず、日蓮聖人の教えに従って「南無妙法蓮華経」とくりかえし唱えることを基本のプラクティスにしています。


ナムミョウホーレンゲキョーとは?

 「南無妙法蓮華経」とくりかえし唱えることにはどんな意味、意義があるのか?ということですが、限られたスペースではなかなかくわしく説明をするのはむつかしいことです。ごく要約して説明しますと、「南無妙法蓮華経」は不思議な力のこめられた呪文なのです。ご本尊に向かって一心に「南無妙法蓮華経」とくりかえしお唱えすることによって、我が身、我が心に御題目にこめられた不思議な力が吸収されていき、病弱な人は健康になり、心の悩みも薄れていきます。また御題目を常に唱える人を仏、菩薩、諸神はご加護くださり、さまざまな困難や苦難から身を守ってくださるのです。

 『論より証拠』といいますから、実例を一つ挙げてみることにしましょう。

・田代博士、地獄で仏に会う

 田代謙一郎博士(42才)は優秀は精神科医であり、熱心な佛立宗の信者です。しかし、数年前まで彼は信仰を持っていませんでした。持っていなかったというより宗教にたいし否定的な感情を抱いていたのです。宗教は医学とは対立するもの、医学的治療にたいし宗教はなんら益しないばかりか、むしろ有害であると考えていました。そんなわけで若い頃から佛立宗の信仰を続けていた彼の妻にたいしても、信仰を捨てるように何度もせまったくらいです。

 ところが数年前、それまで順調な人生を歩んできた田代博士の周囲におもわしくない出来事があいついで起こりました。そうした出来事が引金になって田代博士は激しい精神不安の状態に落ち込んでしまいました。精神科医である彼は、自身の精神状態を自己診断し、分裂病患者に投与する薬を毎日、服用するようになりました。その結果、田代博士の精神状態はますます悪化していき、ついには周囲からは廃人同様の姿に映るようになり、まったく医者としての活動も行うことができなくなってしまったのです。

 彼の妻は夫に一度、彼女の所属する佛立宗のお寺、九州福岡の光薫寺の住職、小林信源師に会うよう強く勧めました。まったくなす術を失った、八方ふさがりの状態にいた田代博士は妻の勧めに従おうという気持ちになり、お寺の住職を訪ねました。住職の信源師は彼に言いました。「今日から薬は一切飲んではいけません。毎日、御題目を唱えなさい。一週間、毎晩一時間、お寺でお助行をしましょう」

 お助行というのは、悩み、願いを持つ人のために、ご信者の仲間が、御題目口唱のプラクティスを共にする、いわば応援の行のことです。

 田代博士は薬を止めたことによる禁断症状にたえながら、真剣に御題目を唱え続けました。

 その結果、彼の状態は三日目よりも四日目、四日目よりも五日目と急速に良くなっていき、一週間目には仕事に復帰できるところまで回復したのです。

 田代博士はその後、妻と共にアメリカに渡り、国立衛生研究所(MIH)で脳の生化学に関する研究を行い、ある種の脳の発達物質を発見するという功績も挙げました。彼は今、福岡の若久病院で臨床活動を行うかたわら、国立九州大学で脳に関する基礎研究を続けています。もちろん毎日、御題目口唱は欠かしたことがありません。

 田代博士はこう語っています。「本門佛立宗との出会いは、私にとってまさに“地獄で仏に会った”ようなものでした。もし、あの時、佛立宗に出会っていなかったら、今の私はなかったでしょう」

 そして、彼は御題目のすばらしさについてこうも語っています。「日本では森田療法という禅の考えをかなり取り入れた精神科の治療法を行っており、私も患者に施したことがありますが、これは非常に時間がかかります。ところが一週間の御題目口唱で社会適応したわけですから、精神治療法として考えるならば、これは驚嘆すべきことです」


御題目口唱の医学的な証明

 御題目を唱えることが医学的にみても、わたしたちの心と身体によい影響を及ぼすということは、他の医学者による研究によっても実証されつつあります。以下、そのいくつかをご紹介してみましょう。

 東京大学病院の精神科医長の平井富雄博士はこう語っています。「ゆっくりとした、大きな深い呼吸を行うと血液が弱アルカリ性に傾く。弱アルカリ性に傾くと、血管の運動が活発になり、したがって血流がたいへんよくなる。血流がスムーズになることによって、心臓は負担が少なくなり、筋肉はやわらかくなり、結果として健康になるわけである」

 普通、私たちは1分間に15、6回くらいの呼吸を行っています。佛立宗では御本尊の前に座り、1分間に35回前後の回数の御題目を30分間から1時間続けて唱えます。このときの呼吸は1分間5〜6回です。つまり御題目を唱えているときはとてもゆっくりとした大きな呼吸を無意識のうちに行うことができるのです。

 御題目口唱の効果を医学的な立場から研究した医師に酒井義夫博士がいます。彼もやはり御題目を唱えると息が深く、強く、長くなり、生命力が高まると説いています。

 また別の研究によって、持続的な御題目口唱は内臓の諸器官を整える自律訓練療法的効果をもたらすことも明らかになっています。

 さらに、一心不乱に御題目を唱えていますと、脳波がベータ波からアルファ波に変わっていきます。ベータ波というのは小刻みで不規則な波のことで、イライラしたり、クヨクヨしたり、緊張した状態のときに現れます。アルファ波というのはなめらかに大きな曲線をえがく波のことで、心がリラックスし、落ちついた状態のときにあらわれます。つまり、御題目を唱え続けると、大脳のバランスを整え、精神的状態が安定するという効果もあるのです。

 このように、御題目口唱は心身の健康を増進するという医学的効果があるのですが、実は御題目にはもっと偉大な力が秘められているのです。


「カルマの法則」を知っていますか?

 ここではあまりくわしく仏教の説く深層心理学について触れることができませんが、ブッダが発見したカルマの法則についてだけは是非お話ししておきたいと思います。

 私たちが日常生活で見たり、聞いたり、話したり、考えたり、行ったりしたことのすべては心の深層部、アラヤ識に植えつけられ、記録されていきます。心の奥に植えつけられた諸経験を仏教では種子といいます。種子とは自分自身の運命を創り出す精神的エネルギー・パワーのことです。つまり、私たちが身体で、口で、心で行ったすべての行為は、自分の将来の運命を創り出す精神的エネルギーとしてアラヤ識に貯えられていくのです。

 自分が行った一切の行為、それは自分の前世の行為も含めて、わたしたちの深層心理に記憶として保持されていることは、近年、医学者、科学者たちの調査研究によっても証明されつつあります。

 たとえばアメリカの優秀な精神科医、ブライアン・ワイス博士は催眠退行によって多くの人々の前世を探り、それぞれの人の前世と今生とを対比してみた上で「その人、その人が今生で受けるさまざまな悩み、苦しみの原因は、実はその人の前世にあったとしか考えられないケースが数多くあった。また前世で暴力的な夫と結婚した人は今生でもそうであり、今生でアルコール中毒になって人生を破滅させてしまった人は、前世でもそうであった。このように人は生まれ変わっても同じシナリオがくり返されるのである。」と語り、数多くの事例を紹介しています。またカナダのトロント大学医学部の精神科主任教授、J・L・ホイットン博士も同様の研究によって、人の前世と今生との関連を証明する事例を数多く報告しています。

 こうしたワイス博士やホイットン博士の研究によって明らかにされた前世と今生との強い因果関係、つまり前世で行ったことが因となって、今生にその報いをもたらすことを仏教ではカルマと呼んでいるのです。

 本門佛立宗の信仰の最も大切な目的は、わたしたちが前世からアラヤ識に染めつけてきた悪い業を消滅させ、未来世の自分の境遇をよい方向に向けていく善い業を作っていくことにあります。御題目を口で唱え、耳で聞きますと御題目は仏の種子となってアラヤ識に入っていきます。そしてアラヤ識に巣くっている悪いカルマを消滅していきます。そして同時に御題目に含み込まれた仏の清らかな力がよい運命を創り出すカルマとなってアラヤ識に蓄積されていくのです。

 このように佛立宗の信仰はわたしたちの心と身体を根源から浄化してくれます。佛立信仰のすばらしさは、あなた自身が体験してみなければ知ることはできません。あなたもわたしたちと共に真実の仏教を信仰してみませんか。

 あなたはカルマという言葉をご存知ですか。精神分析学の創始者、シグムント・フロイトやカール・ユングは心の無意識を探究した学者でしたが、仏教はさらに深層部まで入って、その働きをくわしく説いています。


 「南無妙法蓮華経と唱えることはいかにも古くさく迷信らしく見えますが、いくら考えても調べてもそうではありません。どうにも行き道がなくなったら一心に念じあるいはお唱えなさい。こっちは私の肥料設計よりは何億倍たしかです。」 ・・・宮沢賢治

 「琥珀にはちりをとり、磁石には鉄を吸う力がある。思えば、われらの過去世及び今生のあやまちはこの塵と鉄の如く、法華経の題目は、それらを吸引する琥珀や磁石のようなものである。御題目はわれらの罪業を縁としてわれらを導き、罪深いままに救い給うのである。ありがたいことである。どうして唱えないでおられよう。」 ・・・日蓮聖人 


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