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《御教歌》
 ありがたや 本時の娑婆の 如説行 あしたゆふべに 浄土参拝
2007/4/1 月始総講 長松清潤師

これはご信者さんのよろこびをお詠みいただいた御教歌です。同時に「喜んで信心してますか」「喜べる信心のあり方ですか」。もっと言えば「どの辺に視線を向けて有難いと喜んでるんですか」と。このことを教えてくださる御教歌でございます。

御教歌を再拝いたします。「ありがたや本時の娑婆の如説行 あしたゆふべに浄土参拝」

ご信心をさせていただいていると、しみじみと「あー、ありがたいなぁー、つくづくありがたいなぁ」と喜びが湧いてきます。

御利益をいただいた時のね、皆さんもご存じだと思いますが、「病気が治った」「奇跡のような御利益だ」「あー、ありがたい」だけじゃありません。

本当に、しみじみと、いつも日々の中で、普通の、朝起きて仕事に行って、あるいは頭下げて、謝って、時には怒って、喜んで、叱って、叱られて、、、、そういうことのある日々の生活の中で、しみじみと「ありがたいなぁー」「あぁ、ありがとうございます!」「あぁそうか、ありがたい ありがとうございます」。この気持ちが、心の底から喜びが湧いてくる、これが仏教、私たちのご信心です。

ご信者さんの心は、気持ちは、そうなんだ、と。そういう気持ちは湧いておられますか?

生きていく上では、仕事があり、家庭があり、子育てがあり、喧嘩もし、病にもあい、老いていき、時には怪我もして、いろんなことがある人生で、朝に夜に「ありがたいなぁ、ありがたいよなぁ」。こういうふうに思えますか。

この御教歌に「本時」とございますね。いったいこの「本時」、「ほんとの時」いったいどういう時なのか、何のことなのか。それはもう読んで字の如くなんです。「本当の時」なんです。

つまり、二千六百年前に仏さまがいらっしゃった、歴史上、実在の。その御仏そのものや、十方三世に諸々の仏さまがたくさん説かれているし、いらっしゃるけども、その仏さまが何で仏に成れられたか、成れたかという、そういう根っこの、根本の『時』、『本当の時』です。一番最初。

その「本当の時」、つまり誰もが仏になってゆく、久遠という「プリモーディアル(根本的な)」な時、「根本の時」ですよ。「根本の時」と「今」は一緒なんです。御仏は法華経の中でそう説かれたし、お祖師さまの御法門を拝見したら、そうなんです。

つまり、今は、このいろんなことのあるこの娑婆世界は、本地本時の娑婆世界。このことはね、ほんとにありがたい。

宇宙法界、永遠の時間の中で、後戻りのできない時間の中で、今グルッと一回りして、本地の春、夏、秋、冬ときて、お祖師さまがお出ましになってからこの世界は「本時の娑婆世界」。

その中で、お祖師さまがお説きくださったようにご奉公させていただく、「説のように修行する」如説行。生きていく、ご奉公させていただく。あした夕べに、時には忌々しい、複雑とした、混沌とした娑婆世界が「寂光」と感じられる、寂光にお参詣出来る。イマジネーション、想像力を使わないと分からないかもしれませんが、そこが同じ人間の一生でもありがたい。

こういう御法門をいただいておかないと、御利益をいただいた時だけの火のような、パッとライターのような喜びしか得られなくなってくる。「生きていてありがたい」、何で生きていてありがたいのか。いつ、生きていてありがたいのか、何をするからありがたいのか。本時の娑婆の如説行がありがたいんです。

 まあ、嬉しい、ありがたい、と言っても「それはタテマエでしょ」「そうなの、そういうもんかもしれないわね」「まあ言われてみれば」、なんて言う方もいらっしゃるかもしれません。だからチョット視線を変えて、どういう教えの中で、どういう時に、どういうふうに,お出会いするからありがたいのか、振り返って考えて我々はみんな老いていって、病気にもなって、死んでしくのかもしれないけど、今この瞬間、後戻りできない、永遠の時間の中のこの瞬間に生きて、みんなで、パッと見れば目と目があって、ご奉公させていただけることが、ありがたいなぁ。その証明がこの桜みたいなもんです。

一瞬でも一時でも、そりゃ夏があって、秋があって、冬があって、季節だって人生だって、いろんなことがありますけれども、春になったらまた咲いた。グルグルって。宇宙法界も一緒です。

だから、「本時の娑婆」だって喜べるのは、いわば「春」が来た、春に巡り会えたってことですよ。いろんなことがあるけども、この世でも、今でも、一瞬でも、この春だけでも、日本人は桜を見ることによって、「あー春だなぁ、ありがたいなぁ、きれいだなぁ」と感動できるんです。そういう感動を、私たちの人生の中で感じるんです。これからも、この一生を終えたら、生まれ変わり、死に変わりしていくんです。ただこの両親、この子ども、この一生とは少し違う。時代も変われば人間だかどうだかすら分からない。

その私たちが、永遠の時の流れの中の、この一瞬。こうして生まれて、この両親の下で、あるいはこの友人の中で、このお寺の中で、この仲間とともに、ご信心に出会った。あーありがたいことだなぁー、と。

 先日、三月二十六日に筑波大学の、村上和雄名誉教授が、わざわざ京都の本山宥清寺・宗務本庁に来てくださいました。ご存知でしょうか、村上和雄さん。「生命の暗号」という大変有名な本を書かれた方です。「遺伝子をONにする生き方」という本も大ベストセラーです。

その筑波大学名誉教授、村上和雄氏が、わざわざ講演をして下さいました。本当に素晴らしいご講演でした。妙深寺でも様々な方が村上教授の本を引用してご披露してくださっておりましたし、御会式では福岡御導師も先生の遺伝子のお話をご紹介くださいました。その先生から直にお話を聞いて、色々と感じさせていただきました。

 それはそれは、ご本人からお聞きするお話は、ものすごくおもしろかったです。

まず、講演会の冒頭は、「いま、吉本興業とプロジェクトをやっているんです」という話でした。「笑いと遺伝子の関係を調べる」。すごい研究ですよね。吉本興業のお笑いの芸人さんに協力してもらって、糖尿病の方がゲラゲラ笑ったあと、どのぐらい血糖値が下がるか、そういうことを今、いろんな臨床事例を挙げて研究しているって。そしたら、糖尿病の患者さんたちを集めて、B&Bっていう有名な漫才コンビの方、昔はあの、「笑って許して」じゃなくて、あれれ?「笑っていいとも」じゃなくて何だっけ(笑)…今は「カバチたれ」じゃなくって(笑)…そう、あぁ「ガバイばあちゃん」書いてる方。そのB&Bに協力してもらって、実験した。みんな、腹の底からゲラゲラ笑うとね、平均血糖値が百二十三から七十七になりました、と。「笑う」ということだけで実際四十六も数値が下がった。笑うことだけですよって。村上教授はこういう研究を通じて、医療の質を変えたい、変えれるかもしれない、と仰っていました。

今はお薬がバンバン出ますよね。でもお薬には副作用があります。でも「笑い」はいくら出しても笑いで死んだっていう例はあまり聞かない(笑)。これは医学界に革命を起こすんじゃないかって、冒頭はそのお話でした。

 それで今、この研究の経緯や成果をアメリカの医学雑誌に発表したら、それを読んだアメリカ人が大勢でドラッグ・ストアに行って「B&Bってどこに売っているの?」って(笑)。「B&B」は売ってないんですよ(笑)。もうそのぐらい話題になってるんですね。

 

だけど、講演会が終わった後、村上教授が次に何を研究したいかっていうと「笑い」ではなく「祈り」だとお話しされていたそうです。笑いよりも、もっともっと可能性があるのは「祈り」じゃないかと、人間の。「わはははは」って、「笑う」っていうことでそんなに効果があるってことは、「祈る」っていう「気持ち」や「心」「行為」には、もっともっと可能性がある。例えば、声に出して「健康にして下さ〜い、お願いします〜」っていう人間の気持ちね。その可能性です。

それは素晴らしい研究になるでしょうし、間違いなく素晴らしい成果が出るでしょうね。

 私たちは知っています。「御願いします」っていう「願い」「祈りの状態」は、実は長続きしない。人間の祈り。だから、私たちは、止まったままの「祈り」、単発的な「祈り」ではなく、「南無妙法蓮華経」とお唱えする。継続させ、持続させ、行為に祈る心を乗せる、そして五感を使った「行為」と「祈り」が一致することを目指す、一致する。そして、妙不可思議な御利益が身体の内外に現れると知っています。

「病気全快にして下さい。お願いします、お願いします」って、心の底から祈れたら、果たして人間はどのくらい血糖値を下げ、遺伝子のスイッチをONに生きていけるか。そう考えたら大変なものです。

だから、つきあいで「よろしくお願いいたしますー!」みたいな(笑)、テキトーな祈りなんてダメでしょ(笑)。「笑い」にもいろいろな「笑い」がありますね。「へへ」とか「フフフ」「ホホホ」なんて(笑)。愛想笑いや作り笑い。同じ笑いでもその「笑い」じゃ研究しても無理です、それじゃ血糖値が下がるわけない。

「祈り」だって同じです。「南無妙法蓮華経、はぁぁ〜」(笑)「キョロキョロ」って(笑)。「ふーぅー」って(笑)。これが「祈り」と言えるか?と(笑)。

そうではなくて、心の底から言上してくださっている御導師に合わせて「あぁ、この言上、御祈願を噛みしめよう」「罪障消滅」「病気全快!南無妙法蓮華経」って。これは違いますよ、自ら。大きく。

そういう御利益をいただく、御祈願をする、御題目をお唱えすることのヒントを、村上教授の講演でたくさんいただいた。

 いやぁー、すごいと思いました。他にもたくさんのお話がありました。

村上先生は日本でパッとしなかったんだと、京大でイジメられてた、屋上で泣いてたんだと。その人生を変えたのは振り返るとやっぱり遺伝子をONにしたことだった。まず、一番手っ取り早く遺伝子をONにするのには「環境を変えること」だそうですが、先生もそうだった。あのまま日本の環境の中で学者になってたら、僕はこんなふうになってなかったと仰っていました。

京大から突如思い立ってアメリカに行った。英語は全くしゃべれなかった。おもしろいお話をされてたなぁ(笑)。アメリカの先生はね、家の中に学生たちを呼ぶんですって。ハウス・パーティーかな?でも、あちらの学生たちは「ペラペラペラ〜、イエース」なんてしゃべってる。でも、村上先生だけは英語を喋れないから一人固まってたって(笑)。そしたら、その家に犬がいた(笑)。先生がその犬に対して英語で喋りかけると(笑)、犬はその先生の英語を理解して「ワンワン、ワンワン」って(笑)。それを見て「あぁ、俺は犬よりもダメなんだ。俺は犬が分かる言葉すら分かんないんだなぁ」って落ち込んだって(笑)。大先生からそういうお話を聞くと有難いですね。

 だけど、環境が変わって、遺伝子のスイッチがオンになってるから、吸収力がものすごく速いのでしょう。出来ないながらも研究をされ、アメリカで教鞭を取るまでなられた。これは大変なことです。有難いお話でした。いま、村上教授はノーベル賞候補とも言われておられますから。レニンという大変重要な遺伝子を発見されたのですから。私、個人的にはレニンの発見よりも遺伝子をONにする生き方を提唱されていることの方が素晴らしい何とか賞を差し上げたいくらいですが。(笑)しかし、そのレニンの大発見までのお話も面白かったです。もう、負け続けたと仰っていました。

 パスツール研究所という有名な機関がフランスにある。村上教授は日本で必死に遺伝子解析をしていのですが、もう少しのところで「パスツールはもう見つけたらしい」って。そういう世界なんですね。でも、普通ならその時点であきらめるところを、「よし、俺は一人で偵察に行こう」って、フランスのパスツールまで行ったと仰る。

そうやって「行動」をすれば、何かが得られるんじゃないか、って。まさに遺伝子ONの生き方です。そして、パスツールに行き、帰りにドイツに寄って、そのビア・ホールって仰っていましたが、その場所でまさに不思議な出会いがあって、レニンの大発見に結びついた。努力に努力を重ねて、もうダメだと思ってもあきらめずにやっていたら必ず助けてくれる。見えない力も応援し、サポートしてくれる。そういう積み重ね、そういう力で僕は遺伝子レニンを発見できた。非常に謙虚で、有難い。

 また、ノーベル賞を取られた江崎玲於奈さんのお話にも触れましてね、あの方を筑波大学の学長にするための大変な努力についてお聞きできました。また、江崎玲於奈さんの「ノーベル賞 五年もたてば ただの人」という言葉を紹介してくださった(笑)。ノーベル賞の賞味期限は五年しかないんだと(笑)。プロってのは厳しいって。相撲でも横綱になったら拍手喝采だけど、負けがこむと引退させられる。お坊さんも同じですよって、言ってなかったそれは(笑)。だけど僕はそう感じた。あぁなるほど「お教務さん ○○できなきゃ ただの人」「御住職 格好ばかりじゃ ただの人」ねぇ(笑)。

それと、偉い先生ほど威張ってないって(笑)。良い研究をするためにはみんなの力を合わせなきゃいけない、偉そうでは研究できない。すごいなーと思いましたね。

まぁ、こういうお話は本にも書いてありますが、新鮮でした。新鮮でしょう(笑)?

さて、「遺伝子」は親からいただいたもの。それはみなさん知っていますね。しかし、この遺伝子は毎日毎分毎秒、常に機能しなければ、一日たりとも生きていけないんですね。しかも、全ての遺伝子暗号を「書いた」のは一体だれ?自然が書いたのか?村上教授ほどの方が、「突きつめて遺伝子の世界に身を投じて勉強して、勉強してきたけども、自然はどうしてこんな遺伝子を書いたんだろうなぁ」と思う、と。

三十二億の科学の文字を書いた。一冊一〇〇〇頁の百科事典が三千二百冊、一グラムの二百億分の一の中にある。しかも、人間はそのコピーを六十兆も持ってる。もう分かんないって。突き詰めて、誰が書いたんだっていう疑問を抱く。

先生は「自然にも二通りの自然があると思う。目に見える自然と、目に見えない自然の不思議な働きがあると。命も目に見えない、心も目に見えない。それと同じように、生命は何だかの偉大なものが書いたはず。それをサムシング・グレイトと呼んだんです。『何か偉大なもの』です。これに本当に『感謝』をして生きているかどうかで、全然世界が違う、人生が違う、視野が違ってくる」と。

親にも親があって、どんな人でも石ころから生まれきたってものはいない。細胞一個でさえ偶然に生まれる可能性はない。『命』をいただいて今『人間』として生きているなんてことは、ジャンボ宝くじに一万回連続で当たったようなものだ、と。

人間の細胞六十兆。といっても誰も数えたことありません。「いち、にーい、さん…」、とてもじゃないけど数えられない。その六十兆っていったら、今の地球人口の一万倍です。

私も先日子どもが生まれましたが、本当に赤ちゃんは不思議、神秘的なものですよね。村上教授も仰っていました。子どもが母親のお腹の中にいる過程は、地球生物の三十八億年分の歴史が詰まっているじゃないかって。たった一つの遺伝子の合体した卵からですね、他のありとあらゆる動物になれる芋虫のような形をしているところから人間になるんです、お母さんのお腹の中で。

受精してからの数週間は、ミミズの這いつくばったみたいなものですから。つまり、生命がミジンコから人類に、ホモサピエンスになるまでの、三十八億年間の進化の歴史を、お母さんの身体の中で子どもは繰り広げて『人間』になって生まれてくる。もうそれだけでもう神秘でしょう。私、子どもが生まれたばかりですから、つくづくそう思いました。お母さんのお腹の中の一週間は胎児の一億年です。こりゃ有難いなぁと。ちょっと、ほんのちょっと間違ってもダメなんだ。すごいことなんだ。恐竜にもなれるし、ミミズにもなれるのが『人間』に生まれてくる、ご病気を抱えている方もいっぱいいるけども、これはすごいことなんだって仰った。

 また、宇宙生命、一三八億歳です。それが、この宇宙の生命の年齢です。宇宙はビッグ・バンという一点から始まった。私もこの分野は大好きですから、東大の松井孝典先生の本をあさって読んでいます(笑)。しかし、村上先生は仰っていた。「ビッグ・バンという一点から始まったっていうことについては、僕は直感的に疑問を感じている。もっとその先があったはずだ。循環しているはずだ」と。そういう考え方ですよね。そう、私も全く同じです。客観的な自然科学の手法、要素還元主義的には答えられないし、東大の先生も発表できないだろうけど、私も仏教的に宇宙は循環していると信じています(笑)。

だって、別の説では、この宇宙は五〇回目に始まった宇宙だっていう説もある。ただ、今の物理学ではビックバンで、その時も、その前も何もなかったってことになってる。時間もなかったし、物質もなかったし、みたいな話。でも直感的にそうじゃないって、村上教授は仰ってました。仏教に通じます。いい?(笑)、全部この御教歌に持っていくつもりでいるんですよ、今までの話を(笑)。

 宇宙生命、一三八億才。一番最初に、プリモーディアル(根本的)な『時』に、宇宙の一点にあった、水素原子は、まだ私たちの身体の中に残っているんです。百三十八億年前の水素原子がですよ、この僕らの体の中に。そういう意味で、お母さんのお腹の中では、人類三十八億年を一気に駆け抜けて、小さいミクロの世界では百三十八億年の生命が僕らの身体に宿って『今、ここに生きている』。

 そういう意味の『感謝』、『有難さ』を忘れて生きていると、遺伝子はずーっとオフになったままです。あるいは、毎日毎日、遺伝子は生まれ変わり死に変わりしていくわけですが、そこに歪みが生じるでしょう、と。細胞、遺伝子がコピーを間違っていく。身体でも、頭でも、心で、おかしくなっていくはずです。そうでなくても年を取っていけば遺伝子は傷ついていく。

 本当の意味で、『命』や『サムシング・グレイト』『御法さま』に『感謝』して生きていられたら、「病気」という悪いことが起こっても、それを「サムシング・グレイトからのメッセージだ」と思って感謝して生きれる道があると思う。こういう風にも仰っていました。病気でもです。「もっといい生き方ができるぞ、サムシング・グレイトからのメッセージなんだ」「これはチャンスだ」と思わなければならない。大先生が佛立宗の御法門と全く同じことを仰っている。

人間の一生、年取った、早く死んだ、長く生きれた。それは宇宙の歴史からしたらほんの僅かな『誤差』でしかない。だけど、この限られた、私たちの尊すぎる一生を、どういう風に使って、どう感じて、どう生きるか。幸せとは何か。これは気持ち次第です、『あぁ、有難い』と思えるはずです。

 二十一世紀は日本の世紀だとも仰っていました。日本の文化、思想、立ち位置。

たとえば、「いただきます」という言葉も、英語には訳せない。英語に相当する言葉がない。その「いただきます」という言葉自体が、村上教授からすると「サムシング・グレイト」に対する「いただきます」なんだ。日本人はもともと自然の全てを含む尊いものに対して、「いただきます、水にいただきます、空気にいただきます、大地にいただきます」って、全部「いただきます」と『感謝』している。だから、「いただきます」っていう言葉にものすごく意味がある。日本人はすごい、と。

「おかげさまで」。これも一言に集約した日本人の特質。空気のおかげ、あなたのおかげ、おまえのおかげ、生きてるおかげ、生まれたおかげ、全部に『感謝』する思想が日本人。今は大勢が忘れてますが。

 しかも、「ありがとう」は「サンキュウ」じゃない。これが結びです。「ありがとう」は「サンキュウ」とは訳せない。『ありがたい』、「有ることは難しい」。そうです。そうなんです。

私たちがこの世に生まれてきたこと、百三十八億年の水素原子をいだいて、あるいは三十八億年の人類の進化を一気に駆け抜けて、ここに、このタイミングで、この世界に生まれてきた。生きている、見える、聞こえる、話せる。少なくとも何十年生きてきた、これが「ありがたい」。「ありがとうございます」。とてもとても「サンキュウ」とは訳せない。『有ることが難しいのに、いま私は有る』って。

 その心を、この深い意味を分かっていけるかどうか。

佛立宗のご信心は『本時』という永遠の時間の中で循環を実感して、この世に生まれて、この御法に出会い、仏と共に生き、朝に夕に感謝して。「ありがとうございます」とご挨拶させていただく。これはご挨拶だけじゃないです。

祈って治せるのなら医者なんていらないじゃないかと「祈る人」を笑う人もいる。しかし、村上教授のように、トップクラスの科学者が、そうじゃないんだ。「笑い」なんだ、「祈り」なんだ、「心」なんだ、と仰ってくださっているんです。

それが、傷ついた遺伝子を治し、遺伝子のスイッチをオンにするって言っておられる。私たちは、その実例として御利益談をたくさん聞かせてもらうでしょう。佛立宗には遺伝子をオンにした体験談で溢れているんです。そのことを思い起こして、しっかり『感謝』して、「あぁ、ありがたや」、「有難い」「ありがとう」。「ご奉公できる、ありがとう」。「お参りできる、ありがとう」。「御宝前で御看経できる、ありがとう」。祈ることで、また感動する気持ちが共鳴しあうことで御利益はぜったいにある。

 お祖師さまの御妙判をいただきますと、
『我等が戸住して一乗を行ぜん処は、何れの処にても候へ常寂光の都たるべし。我等が弟子旦那とならん人は一歩も行かずして天竺の霊山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復し給う事、うれしとも申す計りなし』
と最蓮房御返事に御妙判くださってます。

お祖師さまが弟子旦那、お弟子さん、ご信者さんって呼びかけてくださっています。

私たちというのはね、違うんです。他の宗教、あるいはイスラム、キリスト、ユダヤもそうですけど、仏教の中でもね、「この世界、娑婆世界は汚いところだ。穢土だ。だから死んだ後、遠くのヘブン、天国、西方極楽浄土に行きましょう」とか、「大往生」って佛立宗は言いませんからね。「大往生でございます」、これは浄土信仰ですから。違います。

 僕らは遠くの天国、極楽に行くのではなく、一歩も、何処にも行かずして天竺の霊山(インドの霊鷲山)を見る、寂光浄土に朝に夜にお参詣できる、する。本当に有難い。この世界に生きている、生まれてきたって事を嘆いたり、生きているってことを単に苦しみだと規定して、早く死んで天国に行こう、極楽に行こう、じゃない。もう本当に勝負は、本地の本時は『ここ』です。

 生まれてきてありがたい、生きていれてありがたい、朝に夜にお参詣出来てありがたい、すごく刹那で、病気にもなり、死にも遭い、寂しい思いもする、苦しい思いもする。でも、この娑婆を春にするのはあなた次第なんです。スイッチをオンにするのは僕らの心、私たちのご信心次第なんです。

開導聖人の御指南に、
『有難う御座りますると口癖のように申せ』
と御座います。

《ありがとうございます》、これを口癖のようにいいなさい。何かあってもありがたい。何か嫌なことあったら《ありがたい》、お金が儲かった、これは当たり前で《ありがたい》(笑)、でも石につまずいても《ありがたい》(笑)、病気になって《ありがたい》チクショウ、でも《ありがたい》、あぁ「チクショウめ」じゃない(笑)、『有難い』。口癖のように言わなかったら、本当に生きているということに感謝が足りませんよ、贅沢病ですよ。こういうふうに言われてしまう。

 どうかひとつ、どんなに、確かに苦しい娑婆世界ですけれども、ご信者としてどの点に焦点を当てて喜びを噛みしめているか。今一度、振り返って。一時の喜びだけ、後は愚癡、不平を言ってる場合じゃありません。

本時の娑婆、この日この場所でご奉公がさせていただける、菩薩行、如説修行がさせていただける、朝夕にお参詣できるという点に、《有り難い》、こんな尊い、有難いことはないと、こう感得して、また一層ご奉公させていただくことが大事です。斯様に感得させていただく御教歌ございます。

 故に御教歌に、「ありがたや本時の娑婆の如説行 あしたゆふべに浄土参拝」




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