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《御教歌》
上行は 如来の使ひ 末法へ 妙法五字を ひろめ給へり
2006/11/18 妙深寺高祖会第一座 長松清潤師

 ありがとうございます。今日は平成18年、締めくくりとなりますお祖師さま、高祖日蓮大菩薩の御会式にお参詣いただきましてありがとうございます。今日は普段なかなかお寺にお参りできない方も一生懸命お参詣してくださったと思います。

 実は先月の教区お講でもお話させていただきましたが、インドに行きましてダライ・ラマさんとお会いして、今、私たちがお唱えした上行所伝の御題目を一緒に唱えたというご奉公について御法門させていただきたいと思います。

 1989年にノーベル平和賞をとられたダライ・ラマさんとお会いするということで10月3日から10日までのスケジュールでインドまで行ってまいりました。

 しかし、ダライ・ラマさんはあくまでも他宗の、言わば謗法のお坊さんですから、ただ会うだけだったら私たちがわざわざ行く必要はないんですね。だけど、今回はインド出身のご信者さんがどうしてもインドのご弘通に必要だと。他宗みたいに何千万も出してダライ・ラマさんと会うとかそういうのではなくて、「御題目を一緒にお唱えできる」と。ただ単に会うのではないんですね。それじゃあ行こう、ということで今回インドのご奉公を決意したという経緯がございました。

 しかも、ブッダ・ジャヤンティーというイベントがありまして、今年は私たちは佛立開講150年というすごい意義のある年だと私たちは知っているわけです。これは本門佛立宗だけの話かと思っていたんですが、実はブッダ・ジャンティーというのは仏様が御生誕になられて2550年目という年なんです。いろいろな説がありますが、そう信じられている。我々はちょっと違うんですけども、インド、シッキム、ネパール、チベットでは今年がそうだと信じられている。考えてみると50年前は2500年、開講当時は2400年だと。今やインドの仏教徒の人口はわずか1パーセントしかないのですが、インドの首都のデリーにブッダ・ジャやンティー・パークという所があって、全世界の仏教徒が集まるイベントをやった。そこでチャンティング(唱える)の内容をみんなで交換するという大会があったんです。もしインドのHBSのご信者さんが頑張らなかったら他の宗派だったかもしれませんけども、そこの責任者と相談をして日本の代表が本門佛立宗になった。

 全体に白の幕で会場を作っていたのですが、インドはすごいなと思いました。前日にリハーサルがあったんですが、隣にミシンを持ってきて幕を縫ってました。「一週間前に準備しとけよ!(笑)」さすがインド。だから今回のご奉公もダライ・ラマに会うということも私あんまり言わなかったんです。インドですから、行ってみたら「ダライ・ヤマ」さんだったりとか、「ダライ・タカ」さんだったりとかあるんですね(笑)。いくら「本門佛立宗最高ー!」と思っても、世界で一番有名なお坊さんはダライ・ラマさんですな。ハリウッドの有名俳優キアヌ・リーブスが「リトル・ブッダ」という映画でお釈迦様の役をやったり、ブラッド・ピットさんが主演した「セブン・イヤーズ・イン・チベット」など、ハリウッドもそのぐらいチベット仏教に関心を持っている。

 インドの南のセラジェー寺院の若いチベット僧とも会ったのですが、今のダライ・ラマを見つけた人がいるんです。リンポチェというんですが、今のダライ・ラマを見つけたんですから若いはずがない。この方はその生まれ変わりだと信じられているそうです。その人たちと交流会をさせてもらった。対面しまして福岡御導師と私が「法華経の教えはこういうもんですよ」とお話をしました。

 それから別の会に移動したんですが、そこに2000〜3000人のチベットのお坊さんが集まっていた。僕は遠くから見たら赤い絨毯だと思ってたんです。そうしたら何か動いてるんです。すごいびっくりしました。そこに大御本尊をお掛けして、「それでは法華経の教えに基づく御題目口唱をみなさんにお伝えします」ということで御題目をお唱えした。

 いろいろなご奉公があったのですが、インドのデリーのブッダ・ジャンティー・パークの4000〜5000人の方々のために御題目をお唱えさせていただいた。僕なんか血管浮き出ながら御題目唱えてますけども、この御題目というのは『種』なんですよね。ご回向の時、『納種在識 永劫不失 名字信行 即身成仏』と言上させていただきますが、御題目の『種』が初めて聞く人の耳から入って心の、魂の畑に御題目の『種』が植えられる。その種は永遠に消えないという教えなんです。今生でなくても、心の畑ですから、来世、来々世、来々々世、いつかこの種は芽を出す。そして人のために生きることができる、仏様の教えに基づいた菩薩になる。だから気合い入れて御題目を唱えました。その時ダライ・ラマさんを見ていた人がいたんですが、ダライ・ラマさんも「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」御題目をお唱えされていました。

 大会が終わりましたらいろいろな国の方がいらっしゃるんですけども、「メールアドレス教えてください」とか「あなたの教えはどういうものですか?」と聞かれたりしました。

 それから会場を移しまして、面会があり、福岡御導師から英語の佛立宗の本が手渡されました。ダライ・ラマさんは宗教家だけでなく政治家でもありますから、印象づけようとしてギューってものすごく強い力で握手してくるんです。僕もしょうがないからギューって握って。笑顔の向こう側にそういうことがあるんです(笑)

 私は「他流試合だけが本当の実力をつける」って信じています。あるいは出稽古。柔道でも剣道でも空手でもそうですけど、同じ道場の中で同じ練習相手の中で練習してたら、だいたい相手の技とか癖とかがわかって自分の実力がどれぐらいなのか、自分のやっているものがどれぐらいありがたいかわからない。

 ご信心でも、「ご信心してます」っていっても自分の高い塀の中だけで、あぐらかいて同じメンバーとご信心の話をしているだけではいつかマンネリ化してわからなくなっちゃう。ご住職とかお教務さんだってそうかもしれない。ご信者でもお教化の志を持たないとか、お寺には来るけども友達とは宗教の話はしないとかね。そんなことだとわかんないですよ。今回インドまで出かけて、いろいろな方々にご信心の、御題目のありがたさを伝える。失敗もいっぱいありますよ。でもすごい勉強になりました。

 もちろん恥をかく時もあるんです。私はいつも福岡御導師に海外弘通のお話をしていただいて「三割でいいんだ」と。三割成功だと七割失敗ですよね。御弘通御奉公はかっこいいことできない。三割でいい。三割打てたらイチローだと。四割打てたら化け物だと。五割打ったら怪物。六割打ったらインチキだと。たしかにそうです、失敗だらけです。そういうことを繰り返して御弘通ができるようになったり、英語でご信心の話ができるようになったり。最初から100点満点じゃなくて、まずご信心を伝える。出稽古をするとか。ご信心のうえでお教化の気持ちがあるかどうかというのはすごく大事なんです。

 今回も、色々なところで口唱会をしましたが、最後の最後に統括の責任者の方から、「HBSが最高だった」という言葉をいただいて、他流試合の中でもやはり佛立宗だと実感しました。

 最後にはデリーで御講ミーティングハウスの設置を約束してきました。スレンダーさんとい

う方のお宅ですが、ご本尊を奉安させていただきました。「法華経の祈りのためにここを使ってください」と。ありがたかったです。佛立宗はご信者さんから弘まるんですね。どっかの宗教団体みたいにものすごいお金を寄付して宗教活動をするとかじゃないんですよ。それがインドに生まれたということが本当にありがたかった。

 では、他流試合の話から、御教歌を拝見いたします。

 「上行は 如来の使ひ 末法へ 妙法五字を ひろめ給へり」
 佛立開導日扇聖人、お示しの御教歌でございます。

 お祖師さまがおられて、御題目を授けてくださった、私たちはその御題目を頂戴しています。その有り難さを思い返しなさい、忘れていてはならない、とお戒めくださっています。

 再拝いたします、「上行は 如来の使ひ 末法へ 妙法五字を ひろめ給へり」

 お釈迦さまのご遺骨がインドの国立博物館に安置されておりまして、黄金で出来た祇園祭の鉾のような入れ物にあります。このご遺骨は、インドのアカデミーによって発掘されました。これも賛否両論ありますが、涅槃経にも記されてあるとおり、お釈迦様はご入滅されてすぐに荼毘に伏されました。そして、そのお骨は八つに分けられ、中でも出身地であったカピラバストゥからご親戚が来られて持ち帰ったとされています。そのネパール国境に近い場所で発見されたもの。翡翠の容器に入れられていて、全く感心しました。立ち止まってじっと拝見したくなります。持って帰ろうと思いました(笑)

 仏教徒であれば、知っておかなければなりません。仏教は、このただ一人の、実在の「ブッダ」によって創設された。このお一人の方から、全世界にたくさんある仏教の宗派も、ご信者も生まれているということです。

 仏教全体に、必ず共通する教えは、一つには、お釈迦様は人間であったということです。神ではなかった。私たちと同じ人間が「覚り」を開いて、苦悩から逃れて、涅槃・本当の安らかな状態、ニルバーナを得られた。これが凄いことです。

 神は元々「神」です。神が人間を作ったと。これを「クリエーター」といいます。ユダヤ教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、人間は絶対に神にはなれません。絶対に、です。徹底的に、人間は神の下にひれ伏す存在で、絶対の信仰を以て天国に行けるか、煉獄で焼かれるか。これは仏教と、その他の全ての宗教との根本的な違いです。人々が、ブッダに、苦しみから逃れて幸せになる道を説かれた。

 どんな宗派であっても、チベットでも、禅宗でも、念仏でも、仏さまの教えをいただいているはずです。ところが、全く違うと感じるのは、「お釈迦様が何を説かれたかったのか」という点までいくと、ぐちゃぐちゃになってしまって、教祖や開祖の考え方だけで突っ走ってしまったりする。ある特定の御経だけで簡単に判断してしまったり、あるいは全部のお経をバラバラに拝見して、それで修行も教義もグチャグチャになってしまうか。

 阿弥陀経だけ見て、西方極楽浄土の阿弥陀仏に助けて貰おう、一方で「法華経は難しいからやめとこう」とか。偏っていますね。チベットのお坊さんは後者で、仏教の御経文全部を勉強してる。ダライ・ラマさんもお経の全部は読めない。そのくらい難しい。

 ブッダは、たったお一人なのに、お経はたくさんある。だから、勝手に偏るか、どこが本当の御意か分からずに修行も教えもバラバラにやってしまう。朝念仏、夕題目って、天台宗もそうやっているようです。修行がたくさん出来ちゃう。佛立宗は、全く違いますね。御題目です。仏さまの教えは法華経に極まることを知っている。

 法華経という教えは、他の御経文と全く異なるのは、ブッダが「なぜブッダになれたか」を説かれたということです。人間が覚りを開いてブッダになれたのですが、同じ修行をしても悟れる人と悟れない人がいる。それは何の違いかというと、果報とか前世、前々世からの因果ということになるのですが、そのブッダになれたという根本にある原因、本因を説かれたんです。ですから、法華経を前にすると、法華経の久遠のブッダを「本仏」といい、他のお経のブッダは「迹仏」、「迹」は「影」という意味で、「本仏の影として出現されたブッダ」という位置づけになる。

 法華経の本門八品、その従地涌出品から寿量品にかけて、仏さまはそのことを説かれました。そして、その本因妙という修行をさせていただいたらどういう果報があるかということを、続けて本門八品で詳しく説かれる。

 その本門八品。この御法門の間、八品の間にだけ、遙か久遠から一番弟子であった上行菩薩を呼び出されていた。そして、ブッダはその上行菩薩に根本の法を託して、「末法という時代でご奉公しなさい」と付属されます。そのことが説かれている。実は、その時は、その究極の法がなんなのか、はっきりしないんです。

 今回、インドのバンガロールという場所でセッションがありました。そこには、去年お会いしたメノンさんという方がおられました。感動的な再会でした。実は、一年間かけてインドで出版されている法華経を読み返して勉強されていた。また、一人の若い青年は「去年御題目を聞いてから、力があふれて、本当に素晴らしいと感じているんだ」と話してくれました。

 セッションの後、色々な方から質問が来ます。その時に、ある方が言いました。「ナムミョウホウレンゲキョウは日本語ですか?」。さて、どうでしょうか?日本語ですか?そして、どういう意味でしょうか?「南無」はインド語で「ナーモ」。意味は同じで「帰命」とか「尊敬」です。つまり、単純に考えれば「妙法蓮華経に帰命します」「ロータス・スートラを尊敬します」という意。実際、それだけではないのですが、敢えて言うとそういう意味になる。

 そして、続けて「もし、日本語だとすると、ブッダはインドの言葉、サンスクリットで法を説かれて、それが中国語や日本語に翻訳されていったのだろうから、ナーモ・サッダルマ・プンダリーキャ・スートラ」の方がいいんじゃないだろうか?その言い方の方が、ルーツはインドなのだから良いのではないでしょうか?」という質問がありました。理に叶っているでしょ?

 さて、そこでびっくりしたのですが、メノンさんが「いや、大切なのは上行菩薩なんだ」「ヴィシシュタ・チャーリトラ(上行菩薩)が出ないとダメなんだ」と答えられたのです。本当にびっくりしました。

 つまり、先ほどの法華経の中身をしっかりと拝見すれば、そこには上行菩薩がおられて、末法でのご弘通を託されていることが分かる。そのことを考えれば、「なるほど、日本の仏教の考え方、アイデアはいいね。それもらった。では、本家本元だからナム・サッダルマ・プンダリーキャ・スートラでいこう」とは出来ない。絶対に、上行菩薩を外して、「直取り」はできないんです。

 南無妙法蓮華経は日本語ではありません。上行菩薩・お祖師さまが持ってきてくださった久遠からの御法、根本の法です。ですから、宇宙共通の言葉、ユニゾンです。久遠から届けられた御言葉なんです。冗談でも言っていたんですが、もし上行菩薩がアフガニスタンに生まれていたらアフガニスタン語、フランスに生まれられていたらフランス語で良いと。上行菩薩が授けてくださるのは、宇宙共通の言葉、マントラ、呪文のはずだからです。

 しかし、幸いにも上行菩薩は日本にお生まれになりました。そして、法華経に説かれたとおりの大難四ヶ度小難数を知らずのご奉公を果たされ、「南無妙法蓮華経」という久遠の本法を授けてくださった。今回はそのことをインドのご奉公から教えてもらいました。何とも有難いことです。それを、「上行は如来の使ひ 末法へ 妙法五字をひろめ給へり」とお示しです。

 常々、妙講一座で拝見している如来滅の御文を拝見しますと、

「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於いては、佛猶文殊薬王等に之を付属したまはず、何に況や其の已下をや、但だ地涌千界を召して八品を説てこれを付属したまふ云々」(観心本尊抄)

 とあります。この御文は、上行菩薩・お祖師さまの御妙判の中で最も大切な御書、観心本尊抄の御文です。この大事大切な南無妙法蓮華経は、仏さまのお弟子の中で最も知恵の優れていたという文殊菩薩にも、スーパースターの薬王菩薩にも託されなかった。ただ、本門八品を説かれて上行菩薩をはじめとする本化の菩薩方にだけ託された、と。

 考えてみると、本当に有難いことです。他流試合でこういう質問を受けながら、あらためて私たちのいただいている御題目の尊さ、日本でご信心出来ている、お祖師さまの教えを身近にできるうれしさを実感しないといけない。

 私たちの修行、御題目というのは、最高最良、究極です。このインドで世界中の人のチャンティングがありましたが、他のは難しいですよ。第一、たくさん御経文があって、それを別々に覚えなければならないとなったら、誰ができますか?チベットの方はたいへんです。また、チベットのチャンティングは、暗い。すっごいです。チベット密教は「陰」、僕たちは顕教で「陽」、明るいとつくづく思いました。

 また、韓国の方などがチャンティングとダンシングというものをしていましたが、これは全くの民謡でした。「エンヤー、ア〜ア〜ア〜」って。土佐の一本釣りをしたくなる(笑)「ヤーレンソーラン」です。これも音階を知らないと唱えられません。歌ですから。

 だから、みんなはチベットハウスという神奈川県民ホールのようなところでも、観客席の方に向かってチャンティングするんです。聞かせるんですね。観客は最初っから唱えられるわけがないし、聞くしかないから聞いてる。私たちは全く違います。このチャンティングの前に数分間福岡御導師がお話をされて、法華経のご信心、法華経のマントラ、これを一緒に唱えることが大事だと。そして、「はい、ナムミョー、ナムミョー、はい、ホウレンゲーキョー」って練習する。そして、「さあ、この後ろにあるマンダラに向かって、みんなでチャンティングしましょう」って。「世界の平和のために祈りましょう」「この世界で苦しんでいる人の為に祈ろうじゃありませんか」って。これこそ、本当の宗教です。

 常に、私たちの御題目、上行所伝の御題目、お祖師さまが伝えてくださった御題目というのは、そういうものなんです。6ビートで、誰でも唱えられます。何と有難いことでしょうか。

 創価学会もインドで広まっているようですが、でも創価学会の方の家の前を通ったら分かりますが、彼らは声を合わせられません。なぜなら、一遍でも多く唱える、早く唱えることが大事だと言っているのですから。つまり、「はい、御題目口唱」ってなったら、一斉に「ナムーーーーー」って早く唱える。誰とも声がそろわない。私たちは、6ビートで、みんなで声を合わせて、みんなで祈れる。これが世界宗教、上行所伝のご信心です。

 この尊さ、有難さを忘れてはいけません。他流試合をしていないと、忘れてしまいます。お教化の心がない、お教化できないなんていっている間に、本物のご信心ができなくなる。改良も進歩もなく、苦しみから逃れるどころか、相変わらずグルグル悪循環しているというのでは、仏教徒ですらないということです。こんなに有難いご信心をしている、とにかく御題目をお唱えしていただくことだと思い新たにして、お教化のご奉公に進んでいくことが大事です。

 故に御教歌に、「上行は如来の使ひ 末法へ 妙法五字をひろめ給へり」




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