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《御教歌》
 教化せし 功徳はわれに 帰るとよ かれもよろこび われもよろこぶ
(2007/4 教区お講 長松清潤師)

今月はブラジルからクリチバ・如蓮寺のコレイア・教伯御導師にお越しいただいて、ブラジルの御導師の御法門、御利益談、ご奉公のお話をお聞きしまして、本当に、大変有難かったなぁと。日本から一番遠い国でも全く同じようにお計らい、御利益があって、つくづく菩薩行は有難いなぁ、と思わせていただきました。次の日もコレイア御導師による講演会が大学でありましたけれども、大学の方々も大変に喜んでくださって、特に先生が喜んでおられました。

そういう良い機会にいっぱい恵まれる妙深寺ですからね、皆さんもひとつ、『私もがんばんなきゃ』という思いで、四月は入学や就職のスタートの月、新年度で、毎日のようにお寺の御宝前でも御礼が上がっておりますります。『就職します』『学校です』『中学です』『高校です』って。

私たちは、もうとっくに卒業してるかもしれないけども(笑)、やっぱり四月は新しい気持ちでね、スタートをきりたい。特に、心新たにこっちの方向だ、ってスタート切った方がいいと思うんですね。今日はその新しい方向を含めて御法門させていただきたい。この御教歌を拝見させていただきたいと思います。

 では、御教歌に、「教化せし功徳はわれに帰るとよ かれもよろこびわれもよろこぶ」

 佛立開導日扇聖人、お示しの御教歌でございますが、もう皆さんよくご存じの御教歌だと思います。二度、三度と、この御教歌を聴聞されている、そういう方もおられる、大変に有名な御教歌です。何を仰ってるか。それは、「お教化すると功徳は自分に返ってきます、人もよろこぶし、自分もよろこびます」と。単純に拝見したらそういう御教歌です、誰でも分かりますね。

 「教化せし功徳はわれに帰るとよ かれもよろこびわれもよろこぶ」

 でもね、この御教歌をチョット裏返して、もう少し深く拝見してみていただきたい。「お教化」を「したら」、「彼」も「よろこび」「我」も「よろこぶ」ですね。では、「お教化」を「しなかったら」?「彼」は?よろこぶんでしょうか?そう、「よろこばない」、ですね。では、自分は?そう自分もよろこばない。よろこべない。

はっきり申しますと、「お教化をしなかったら、人もよろこばないのは当たり前だし、自分のよろこびも薄れてゆく」という。分かりますでしょうか?佛立信心ならではの御教歌、佛立信心の極談です。

ですから、お教化のご奉公気張らせてもらう。自分の、喜びのご信心を保つために、お教化のご奉公が欠かせないんです。お教化は喜びのご信心を保つエキスである、と。分かりまでしょうか?

「私はね、信心してるけど一度もお教化したことない」っていう人。いや手をあげないでいいです(笑)、恥ずかしいから(笑)。あるいは、「昔はお教化したけれども、最近はお教化できません」って。あるいは、こうやって部の御講、正法帰入のご祈願をしているけれども「お教化は全くできません」と。

これは、やっぱりね、何か間違ってるんです、ご信心の仕方がね。偏ってる。どこか改良しなかったらいけない。

 この御教歌からすれば、お教化をしなかったら、自分の信心が喜びの信心じゃなくなるってことです。何度も御法門させていただきますが、ご信心は落ちてゆくものですね。それを上げる、上げねばならぬという御法門はたくさんある。特にこの御教歌では、そのご信心を上げる方法は「お教化」だと。

田口・ランディーという作家、エッセイストの方がおられます。先日、本泉寺の橋本園美さんから本をお借りしてちょっと読ませていただいた。そこに、オウム真理教なんかみてると宗教っていうのは「閉じた世界」だって。そう書いてあった。なるほど、と。

「閉じた世界」の中で同じ価値観の人間が集まって「ああでもない」「こうでもない」ってやってるように見える。それは自己完結型、自己満足の「閉じた世界の話」だと。こういうこと書いてるんですね。あぁなるほどなぁ、オウム真理教などはある意味でそうですよね。自分の世界。自分で完結した世界。

でも佛立宗どうか。これは、今みなさまが読んでくださった『菩薩の誓い』を拝見しても分かるとおり、違うんです。閉じた世界の話じゃない、閉じた世界にしてしまったら佛立宗の信心じゃない。信心のように見えても…。

つまり、自己完結型、自己満足型の佛立信心っていうのはあり得ないんです。偽物の佛立信心になっちゃう。「あたし信心してるわよ」って言っても、「ちょっと違う信心じゃないの」って。「喜びがなくなってるんじゃないの」ってことになる。

だから、その点でも「お教化」は、ちょっと自分以外の、違う人のことを考える、他の人にご信心を勧める、他の人の話を聞く、ご信心をお伝えして信じる心を取り戻していただくっていうことが大事なんです。それは、単に人のためではなくて自分のためなんです。

 最近、京都でご奉公させていただいています。それは、いまお寺に張ってある赤い人が歩いてるポスター、御覧になりましたか?今度、本山の開導会の第四座で「青少年の一座」を奉修させていただくんです。今の社会を見ていて、イジメや若い人の自殺など、あまりにもたくさんの問題があります。そうした問題に囲まれた若い人たちに何かを伝えたい、伝えなければ、という思いを込めてご奉公を進めています。

でも、ありきたりの文句を並べて、『はい、イジメをやめましょう』とか『自殺をしてはいけません』って言ったところで若い人がイジメをやめて、自殺をやめるとは思えない。それで若い人の心に『生きる』ということ『命の尊さ』が届くだろうか、と。これでは届きません。単に説教のようなことをしても。

ではどうするか。どうすればいいか。やはり、私たちは佛立信者、大きな家族ですから、自分以外の人間、人生の話を聞いていただいて共感してもらうしかないと思うんです。『イジメをやめよう』『自殺をやめよう』ではなく、いま目の前に生きたくても生きれない人がいる、そういうご家族がおられる。そういう方々のお話を聞いていただきたい。遠くのテレビの中の、ゲームの中の、ドラマの中の話ではなくて、身近な、生のお話を。

 毎日、私たちご信者は聞いているじゃないですか。祈っているじゃないですか。お助行させていただいている。これから嫁さん孝行をしようと思っておられる壮年の方が末期の病気と告げられている、あるいは妙深寺の方々はご存知だと思いますが、十三才で白血病と闘って頑張っている吏絵ちゃんやご家族。先日も会議でお聞きしたのですが、タカラちゃんという赤ちゃんがおられる。お母さんのお腹の中にいるときに、お医者さまから心臓が悪いと言われた。もうどうしようもない。お医者さんからはお腹の中でもたない、と。そこから毎日ご祈願して、そして何とか健康に生まれてきてくれた。だけど今でも不安なんですって。いま一歳になった。みんなが驚く奇跡の話、御利益談として発表するようなことは出来ないけれども、今でも家族は生きて欲しいって思っている、継続した『命』の話を、若い人のために、『命』の大切さを教えるためにしてもらえたらって思っているんです。小さい身体で、一歳に満たない赤ちゃんが、こんなに一生懸命生きようと頑張っている。若いお父さんお母さんが今、一生懸命に『生きて』って祈りを捧げてる。

 そうした方々の声を聞いていただいて、一緒に祈ることのできる佛立信心です。共感、共鳴が人を変える。これは小乗仏教や他の宗教では全然できません。『この娑婆は苦しいから早く極楽に生まれよう』とか、あるいは『自分の精神状態を、スキルを高めたい』とか『自分がパワーアップしたい』って。

しかし、佛立宗は違う。人のお話に共感して一緒に祈れる。ああ、有難いことだなぁと。

人間って、自己完結型、自己満足の世界でね、安住していたら、正しいものの判断できなくなってきます。佛立宗のご信心をしていても、自己完結型、自己満足の世界で安住していたら『それは佛立信心じゃない』ってことが分からなくなる。

それをこの御教歌では教えていただいています。

 ブラジルから来られたコレイア教伯師が、先日お話していました。今後一五年から二十年経ったら人類の八〇パーセントが脳か心に障害を持つ、そういう説がある、恐ろしいって。平たく言ったら、人類の八割が気が変になるっていうことです。それが空気か食べ物のせいなのか分かりませんが、何かおかしくなる。恐ろしい世界です。ほんのちょっと先、二〇三〇年くらいのことです。

その話を京都の長松寺で話していましたら、幼稚園で保母さんをされている方が、『そうなんです。私も今幼稚園で一五人の子どもを預かってますけど、その内の十二人は心に何らかの問題を抱えている』って。家庭もそうだけど、特に心が。たとえば、落ち着いて座ってられない。昔もこれはあったけど、物を取り上げてバシバシ自分の頭を殴る、自傷行為に走る、突然奇声を上げるとか…もういろんなことで、もうひっちゃかめっちゃかだと。昔と違うって。それを聞いて、今のコレイア師のお話も頷ける。昔も落ち着かない子はいたかもしれないけど、こんなじゃなかったはずだって。

私も考えてみたら、先日自分の子どもが生まれた時、大部屋だったんです。その病院では一晩で七人くらい生まれたんですが、その部屋の他の四つのベッドでは赤ちゃんかお母さんに何らかの障害があってお部屋に戻って来れないって。恐ろしくなりました。これでは産婦人科の先生もお勤めの看護士の方々も大変です。医療機関だけのせいじゃない。何かがおかしくなっている。

 先週、御講席に九十九歳の星野さん、九十四歳の栗田さんがお参りくださっていましたが、お祖母ちゃんたち、本当に一生懸命生きてきて、ご奉公もしてくれて、今の世界をどう思いますかって。二〇三〇年にはグレートバリアリーフの珊瑚礁が絶滅しますとか、気温が一度上昇、これ確実に上昇すると言われていますけど、気温が一度上昇したら何十万種の生物が絶滅するって言われて。しかも、人間も八割が気が変になるとか。あるいは、今の子どもたちが…今の格差社会が広がっているって。ワーキングプアって。

これは、どう考えても、今の『自己完結型』『自己満足』の生き方で、『はい、私だけ幸せになったら大丈夫』なんて言っていられない。ほんの僅かな期間は良いかもしれないが、孫だろうがひ孫だろうが、そこに暮らす人たちに良い社会なんてありません。とてもじゃない。同じ風景すら見られないかも知れない。

それでよしとしているご信心なんて、おかしいじゃないですか。私たちは違うんです。そういうご信心じゃない。

 妙深寺のご信心をさせていただいて、有難いなぁーって。

一昨年、妙深寺に大学生の方をお預かりしました。ご信者さんではありませんでしたが、大学で問題があって、大学にまでお手紙を書いて更正のお手伝いをさせていただいた。先ほどのお話と同じように、いつもの妙深寺のご奉公の中で生活してもらった。つまり、病気の方や問題のあるご家族のお話をお聞きしながら、お助行をさせていただくような生活です。

無事に妙深寺での修行を終えて元気でやっているのかなと思っておりましたら、本人からではなく手紙を出させていただいた大学の学部長の教授からメールをいただいた。何だろうと思って拝見したら、「妙深寺のおかげで彼は世界の中の自分を自覚して頑張っています」って。こういう手紙だったんです。有難いなぁと思っていましたら、「つきましては今度は○○君という子が心の病気を抱えておりまして、またお寺で預かっていただけないでしょうか」と。

まわりにもお寺はいっぱいあるだろうと思うんですが、わざわざ妙深寺にお話をしてくださった。これもまた不思議な御縁だなぁと。「妙深寺で出来ることならば、その子のために頑張ります」って返事をさせていただきました。

実際、そのメールを他の大学の先生にもお聞きしたら、さっきの幼稚園の話ではありませんが、いまや大学生が自覚・自立して勉強ができないようになってきている、と。ですから、小学校のように、大学でもPTAのように親の会を作っているというのです。親の会が心の病などを抱えている学生を支援している。支援しなければ、勉強できないと。

 みなさん。心臓に毛の生えているような私でも不安になります。この世の中。本当に『私が幸せ』とか何とか言っているだけでは、手で目をふさいで「幸せだー」と叫んでいるのと同じです。「見ざる、聞かざる、言わざる」です。自己暗示のように『しあわせ、しあわせ』って自分に言い聞かせているだけです。

目を転じれば、『閉じた世界』の中で、自己完結型、自己満足の生き方をしているのではダメで、やっぱり人を救うとか、人と共感するという中で本当の『幸せ』は得られる。

先日、私が本当に頭が下がったのは兼子清顕でした。やっぱり彼は良いご奉公をしています。

「教化せし功徳はわれに帰るとよ かれもよろこびわれもよろこぶ」

 この御教歌の『お教化』ということを念頭に置いてないと喜びが無くなる。そういう御教歌ですね。

土曜日の夜に清顕が雨に濡れて帰って来ました。「おまえどこに行っていたんだ」と聞きましたら、「反町に行ってました」って。よく聞いてみると、たった一人で反町駅の近くを、一軒一軒、家を廻ってお伺いしてきましたって言うんです。

ピンポンって鳴らさせてもらって、「三ツ沢の妙深寺っていうお寺の兼子清顕っていいます。若いんですが僕お坊さんなんです、何かお坊さんに聞いてみたいことがあればと思いまして…」って。十数件も廻っててきたって。

私、それを聞いただけで、もう感動してしまって。清顕は「でも、御住職。毛嫌いされませんでした。二軒も玄関まで入れてくださって、お話をしてくださった』と。「一軒目は怖い人だったんですが、大きなシベリアンハスキーがいて、それで『この犬は噛むんだよ。だけどお前には吠えなかったから入れてやったんだ』とか言って(笑)。入れてくれました」「二軒目はお年寄りでおばあさんが出てきて、『あぁそう、お寺さん』なんていって話をして。…いや妙深寺の御住職は子どもたちのこともあるから英会話でも教えて御縁を作って色々な問題をサポートできるようにって言っているんです、そういうお寺なんですよと言ったら、『あぁ私たち、サンフランシスコに長く住んでたのよ』って、しかも『英会話教室もやっていたのよ』と。フッと横を見たら英会話教室の看板が掛かっていた。そしたら奥からおじいさんまで出てきて、子どもの教材を持って『こういうように英会話を教えていたんです』って、『何なら英会話をお寺に行って教えてもいいな』なんて。そしたらおばあさんも『そうよ、あなた家にいてもやることないだから、お寺に行きなさいよ』って言ってくれました」と。

 コレイア師の御法門で感動してる。でも、妙深寺にも素晴らしい教務がいます。行動してる。とても『閉じた世界』の話じゃない。実際に動いて、新しい縁を結んで。「あぁ有難いなぁ」と思わせていただきました。

しかも、その老夫婦が雨が降っているからと傘までプレゼントしてくれた。「どうぞ」って。反町駅から傘を差して、歩いて帰ってきたそうですが、その帰り道のコンビニエンスストアの前で、先日の町内の方をお呼びした観桜会の時に来ていた子どもたち、松中のバレー部の子がいたんだって。「あー、坊さん、ウェーッス」とか言って。そこで彼らにも会えた。また、フッと自動ドアの近くを見たら酔っぱらったサラリーマン風の方が座り込んでいた。雨の日ですよ。そこで、清顕が「風邪をひきますよ」って言って、その傘をプレゼントして帰ってきたって言うんです。

どうですかこれ。すごい教務です。良いご奉公です。本物です。

 でも、「何でお前、行こうと思ったんだ」って聞いたら、会議とかいっぱいあるんですね、布教区やお寺で。でも、その会議に出てていても、前向きの話ばかりじゃないんですね。それでこう心の奥底で悶々としてきたっていうんです。ある意味では『閉じた世界』の『閉じた話』だと。みんな言葉は「お教化」とか「ご弘通」「法灯相続」と言っているが、遅々として行動に移れない、行動できない。もちろん、そこまでは言っていませんでしたが、会議会議で「ウーッ」と思って、一人で「近所のお宅を廻らせていただこう」って思ったと。

 そうです、私たちは変な世紀末宗教ではありませんし、統一教会でもものみの塔でもありませんが、ごく当たり前の、素晴らしい法城を構えさせていただいている『お寺』です。有難い、何の躊躇もいらない。いま、取り戻していただきたい人間の生活、正しい信仰心、仏教はここにある。

ですから、私たちは視点を変えないと、本当に佛立宗の信心なのか、どこに喜びを見いだせばいいのか分からなくなってしまう。

 開導聖人は「常講歎読滅罪抄」という御指南書で次のようにお示しです。
「されば、大恩報謝の御奉公にもと、展転随喜するに教化の功徳、己に帰す。一善一切の善、一切の善、一善に帰す」

この御指南では、お祖師さまへの大恩報謝の御奉公をさせていただこうと展転随喜、つまり自分から人へ人へとご信心の喜びを伝えさせてもらおうとすれば、お教化の功徳は全て自分に返ってくるとお示しです。お教化の際に言上させていただいています。

そして、次が大事です。「一善一切の善、一切の善、一善に帰す」。このたった一つのお教化の善行というのは、世の中にある一切の善行の根本である、という意味です。

つまり、世界平和とか環境保護とか、貧困を、格差社会を、子供を救おうとか、今はボランティア、善行がたくさんある。あるように思う。介護をしたり、貧しい国にシーツや毛布を送ったり、子供たちの里親になったりと、頭を下げたくなる色々な善行がありますけれども、突き詰めれば、その善行の根本に、御仏、お祖師さまは、この「南無妙法蓮華経の御題目をお届けする」という『一善』があるとお示しなんです。『一善一切の善、一切の善、一善に帰す』とは、そういう意味です。

だから、有難いではないか。有難い。尊い。有難い。色々な不幸がある。しかし、そこから救ってあげるために「信」を取り戻す、御題目をお届けする、信心させていただく。ここに善行、菩薩行は極まる。信じる心を取り戻すから幸せになれる。信じる心を失っているから、家族は不幸になり、心に病を抱え、子供たちも世界も不幸になる。正しい信仰を持つことが『一善』なんです。取り戻せば幸せが巡ってくる。

 三ツ沢教区は、いま猛烈に随喜の輪が広がっています。盛り上がっている。今月の御講も四十名を超すお参詣者でお宅から溢れておられました。その十人ぐらいが新しい方々です。特に、その筆頭は河鍋さんという方で、まだご信心されて五ヶ月ほどです。寺報にも出ておられますが、この方だってフッとしたきっかけでご信心に付かれた。

スポーツクラブでお友達になって、その後にも聖実ちゃんと親しくしていたことからお教化になられた。もちろん、それまでは「南妙法蓮華経」の御題目とも、お寺や宗教とも御縁のない普通のOLさんでした。でも、お話を聞いていたら自分の働いている会社の社長がお亡くなりになって、実生活でも色々と問題や不安があってって。そしたら聖実ちゃんや輝江さんが『じゃあ、お寺行ってみれば』って。お寺にお連れして。年末にも大掃除やお鏡餅つき、四月の開導まつりでも子供をだっこして、本当に喜んで喜んでご信心されている。御戒壇もそれは立派で、お給仕もしっかりしておられて、毎朝毎晩御看経をあげて。こんな世界があったんだって心からご信心を持てたことを喜んでくださっている。

ですから、先日も三ツ沢教区の人に「ねぇ、輝江さん河鍋さんどうですか」って聞いたら、『もう有難いのー。みんな喜んでるの、私たちが信心改良できたー』って。新教化の人も喜んでるけど、もっと喜んでるのは周りの人ですよって。つまり、この御教歌です。彼もよろこぶし、我も喜ぶ。

 私も学生時代からの友人でお教化させていただいた森さんが、私はお教化しただけで何もご奉公が出来ていなかったんですが、妙深寺の同世代の方とやりとりしてもらいながら今はその三ツ沢教区で信心増進しています。やっぱりお寺の近くに住みたいって、本当に引っ越して来られて、河鍋さんや皆さんと一緒に毎朝お参詣してくれています。ものすごく大きな声で御看経してくれている。仕事もすごく忙しいんですが、夜中一時ぐらいに帰ってきても御看経してるって、隣に住んでる清美ちゃんが言ってました(笑)。アパートで一時ぐらいでも御看経の声が聞こえるって(笑)。それを御講席で話してるんです。『ごめん、夜中に。おっきかった声(笑)』『いいのよ(笑)』なんて言いながら。

みんなで、「ご信心が有難い」「有難い」「有難い」って、そういう気持ちになってるから。それは新教化の方々が喜んで、また周りが喜びを高めているという手本です。

 私、今日は先住の懐中御本尊をいただいてきているですが、私の懐中御本尊はある女性にお預けしているんです。まだ懐中御本尊もお出来になっていないご信者さんになったばっかりの方なのですが。大手の広告代理店にお勤めになっておられたんですが、ひどい鬱病を患われて退職された。小泉さんのお知り合いで、お寺にお連れしたんです。

何度も何度も職場に復帰しようと思ったけども、自分の心がコントロールできない。鬱病は、本当に心の中から信じるものが無くなっていって、自分の心のなかから、生活の中から、頭の中から、他人はもちろん、親兄弟や親しい人、過去や未来や自分まで、信じられなくなる苦しい病気です。それでいて色々な出来事も、人の言葉も、自分の声すら頭の中に残って綱引きをする。終わりのない、結論の出ない綱引きです。それが鬱病ですが、彼女は妙深寺の本堂に上がって号泣された。お話を聞くと「夜中に死にたい、死にたいって思う」と。年子の弟だけ家族が可愛がって、子どもの頃からずっと何処にも居場所がなかった。今も居場所がない。だから夜になると死にたい、死にたいと思うって。可哀相すぎる。

ですから、私は自分の懐中御本尊を彼女の首にかけて、どうか何も考えずに夜中でも何でもいいから、御本尊を握りしめて、南妙法蓮華経…とお唱えして、とお話ししました。だけど、人を信じろと言っているんじゃない、僕を信じろとも言っていない、御題目を信じる、とにかくお唱えするんだ、お唱えすることが信じるってことだと。信じる心を取り戻せ。死にたくなったら何も考えずに唱えて、と。今、どうなるかは分かりません。でも、死ぬなと言って見送りました。いまお参詣を待っています。

また、別の方ですが、この前の日曜日に懐中御本尊を初めていただかれた女性も、難病で手の平と足の裏の真皮が出てしまう病気なのですが、ご信心をされるようになりました。早く治って八年、普通で治るのに二〇年かかる大変に重い病気です。でも明るくて、素敵な方でした。その方が、小泉さんに連れられて妙深寺にお参詣されて、『二十分間、初めて御看経いただけました。有難いです。懐中御本尊いただいて有難いです』って。また『お供水って宅急便で家まで送れないでしょうか』って(笑)。おもしろいことを相談されるなぁって思ったんですが、だけど彼女は手のひらのご病気ですから重たい荷物は持てないんです。ですから、妙深寺までお参詣するのに一時間半もかかるから、お寺に一回一回行ったら三リットルぐらい持って帰りたい。でも出来ない。宅急便できないかなって。だけど、その「喜び」「思い」が有難い。そこまで御法さまを信じて、お供水を信じてねやってくれてる。もう一歩です。

 そういう新教化の方から教わることがいっぱいある。

私たちだって、みなさんだって、こうやって一生懸命ご奉公してくださっている。でも、教区御講の願主になっている方でもなかなかお会いできない方もいますね。御講願主の方々も、古くからご信心されている方々も、それは有難いご奉公をしてくださっています。だけど、「ご信心の喜び」っていう意味ではね、そうした縁の深い方々、ある意味では「それだけ」の方々の信心を「もう一度奮い起こして」「ご信心を勧めて、家族にも信心を教えて、お助行に行って、励まして」っていうご奉公だけしていると、確実に「喜び」という部分では薄れていますから、「えー、お寺、そうですか…何です…いやうちはねぇ、結構です』なんて。そうやって体よく断れたり、あるいは逆にイヤな顔をされたりと。それもそれはご奉公で大事なことですけれども、それだけだったら「喜びの信心」がこっちまで薄れてしまう。だからこそ、新教化の方から教えてもらうことが多い、と。

ご信心と縁はあるが喜びがないっていうのは、もう昼なんです。真っ昼間に太陽の有難さを探しなさいって言ってもピンと来る人は少ない。そういうものです。しかし、新教化の方の随喜、そのエネルギーはすごい。いわば、真っ暗闇の中に、明るい太陽が昇ってきて、「あぁ有難い」と思ってくださる声、喜びです。

そういうご奉公を念頭にしていないと、いつしかやっているけれど喜びがない。偏った、形ばかりの、偽物の佛立信心、そうじゃないのに、「それが佛立宗のご信心」「こんなもんが佛立信心」ということになってしまいますよね。

 いつも話してる小泉さんのことですが、とにかくお教化が出来る。「なんでそんなにお教化できるの」って先日も話をしていたんです。そしたら、「やっぱり、僕は自分の為に、自分が嬉しくなるためにも、一日に一回は誰彼構わずにご信心のお話をしてるです」と仰る。「俺ね、お寺に行ってんのよ、有難いのよ」なんてね。清顕師と同じように、「御住職、今時はね、変な宗教やってるな、なんて嫌われないですよ」って。みんなごく普通に、自然に聞いてくれる。

もちろん、彼の素敵な言い方、自信があって、明るくて、何の屈託もない人間性があってだと思います。だから、「お寺に行くと気持ちいいんだ。すごく良いお寺なんだ。朝参詣したらと気持ちいいよ」って言うと、みんなが「ねぇ、お寺連れてって、どこにあるの?』って聞いてくれるって。そういうものだと。「俺たち、オウム真理教やってる訳でもないし、変な新興宗教でもない佛立宗だよ。三ツ沢の妙深寺だよ。住職に一回会ってみとか、あの信者さんに会ってみたら」って。そうやって言わせてもらったらみんな自然にお寺に来ますって。それでお教化になる。別に、教学を理解して、難しい御法門を理解して、「佛立宗はこういう教えで…あの宗教とはここが違うんだよ」って言って「ふんふん、九八点だから入信します」って、そんな人いません(笑)って。

『有難い。お寺行こう』『最高だ』『先祖のご回向してるか』『お墓参りしてるか』『してなかったら行こう』。これでいいんだと、有難いんだと。みんなやったら有難い、有難いって。また自分も嬉しくなると。

 「私はご信心してたけどお教化したことないんです」「昔はしたけど何年間もお教化できないんです」とか、「これだけ正法帰入の御祈願もしているけど、なかなかお教化はできないんですよー」と言っているのは、やっぱりみなさんのご信心がちょっと間違ってます。偏っています。『閉じた世界』に入ってしまっているだけです。ずいぶん改良しないといけません。

御看経をしっかりしないと言葉も出てこない。清顕師のこのご奉公をちゃんと見習ったらいい。教務部でも「本当に清顕のご奉公は有難い』って言っているんです。やっぱり教務はそうでなければ。

開導聖人の御指南をいただきますと、
「己の信心を増進の為には人を教化せよ。人を折伏すれば我が信心上がる。人折伏せざれば我が信心下る」
斯様にお示しで御座います。

 この御指南、簡潔、明瞭極まりない。いま私が御法門させていただいたことの意味など無いくらい明確です。

自分の信心を増進させるためにはお教化をしなさい、と。「信心増進」というのは「御利益」とイコールです。信心増進しなかったら御利益はいただけないのですから。

そのご信心を増進させる、本物の佛立信心になりたい、キープしたかったら、お教化しなさい仰っている。分かりますか。御利益をいただきたいのならお教化ができるような信心前になりなさい。人をお折伏すれば自分の信心は上がります。お折伏をしようと思ったら信心が上がる、逆にお折伏ができないと信心が下がっていく。

「変な宗教だとか何とか言われたら、ちょっとね」「嫌がられたら面倒だから」「知らん顔が一番」「他人のことはしったことじゃない」「自分のことで精一杯」って言っている間に、ご信心が下がっていきます。でも、「お折伏」って好きなこと言うだけじゃないよ。ご信心の喜びを伝えるってことです。

信心を上げるのは何か。下げるのは何かってことです。教えていただいているのは。

ほら、「私は自己完結型」「自己満足の信心だ」という方は、今ここで、即刻改良せねばいかん。『閉じた世界』の宗教じゃ、佛立宗は断固としてありませんからね。

人の痛みを知り、人のことを気にかけ、人に伝える信心。共感し、共に祈り、共に歩み、生きるご信心です。それをすれば、自分のご信心が喜びの信心でキープできる。つまり、お教化は喜びの信心を持つためのエキスです。そのことをしっかり心得ていただきたい。

いつも申しておりますが、みなさんのご家庭は『町のお医者さん』です。この町内に何件佛立宗のご信者さんがいるか。こんな悪くなっていく世の中だけど、御宝前のある家がここにあるじゃないですか。このご家庭の御宝前をもってして、一体何軒の近所の方々を救えるか分かりません。

こうして御講師方がそのお宅の御宝前に来させていただくのも、お医者さんが巡回診療に来ているのと同じです。そう考えれば近所の人も連れて来たくなるはずです。そういう御講を勤めたい。お講師がお助行に来られたら、もう自分の親戚から近所の人から、集めて、まとまって相談させたら良い。そのくらいのご奉公をさせていただきたい。

 「己の信心を増進の為には人を教化せよ」

 いくらでもお教化はできます。お教化できないさせていないのは自分のご信心が間違っている。偏っている、弱くなってるんです。

このことを心得て、お教化のご奉公をこの新年度の四月以降、気張らせていただくことが大事。このように感得させていただく御教歌でございます。

 故に御教歌に。「教化せし功徳はわれに帰るとよ かれもよろこびわれもよろこぶ」




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