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《御教歌》
末法の 外未来まで 題目を  弘め貫く 宗旨也けり


 佛立開導日扇聖人、お示しの御教歌で御座います。

 言上書に「森谷吏絵ちゃん」と御有志が、言上用紙をめくって見たら一番最初に見てしまったので、
「あれ、吏絵ちゃんが来てるのだろうか」
と思ったら、御法門出来なくなっちゃうんじゃないかなと思うくらい頭の中が真っ白になってしまいました。

 本山のご信者さんはご存知でしょうけれど、ちょうど九月だったでしょうか。十二歳の森谷吏絵ちゃんが白血病という大変な病気だと。夏期参詣中に本山のご信者さん方がお助行を一生懸命されていると言うお話を、長松寺の御総講でお祖父様の前川さんからお聞きしまして、横浜の妙深寺でも毎朝の御看経、全お講席の中でですね、吏絵ちゃんのご祈願をさせてもらおうと言う事で、ずっとご祈願をしておりました。

 まだ、僕は吏絵ちゃんに会った事もありませんので、どんな子なのかなと思って楽しみに御看経をしていたんです。今日、もし吏絵ちゃんが来ていたら、、、会えるのかな、、、と。訊ねたら今日は来ていない、と。そうですよね。でも、退院が決まったと言う事で、何とか治療が成功したら、お会いできれば本当に嬉しい。吏絵ちゃんは、病院にたった一人で、大変な病気と闘っているのでしょうから、私たちには御題目をお唱えすることしかできませんけれども、何とか御法さまに助けてあげていただきたい、とつくづくそう思います。それしか出来ないですから。

 ちょうど先週、今ベルリンに留学している、ここにお参詣されている田口さんの息子さんがお手紙を添えてプレゼントを送ってくださいました。すると、その中に
「御導師、一年ありがとうございました。私もベルリンで森谷えりちゃんのご祈願をしています」
と。名前が間違ってしまっているんですが(笑)。でも、遠く離れた国から、吏絵ちゃんの為に、この地球の反対側位のところで御題目を唱えて、
「森谷さんの白血病が良くなるように。何とかお計らいを頂けるように」
そういう御祈願が世界中に弘がっていくのが、僕は佛立宗のご信心の素晴らしさだと思思います。そういう心と心の輪が、御題目によって結ばれて、それはそばで手を握ったりしてあげられるのはご家族かもしれません。しかし、ご信者さんは御看経が出来ますから。繋がる。伝わる。一分でも力にならせてもらえる。大変有難いなと思っています。

 十二月、いろいろな締めくくりのご奉公がございますが、それぞれに個人個人でも一年の締めくくりの仕方があると思います。しかし、そうした締めくくりの中にあって、このご信心をしている一人間として、志の高い「菩薩」として、どういう年の締め方、新年の迎え方があるか。

 十二月の四日から十一日まで、インドの方に、福岡御導師の随伴をしてご奉公に行かせて頂きました。そうしたご奉公も御法門に含めて、ここで御教歌を頂いてお話をさせて頂きたいと思っておりますが。何しろ、この度のインドの旅で本当に勉強になったことは、「とにかく御題目を伝える事しか無い」ということです。本当にそれしか無いんです。

 みんな、それは御題目を始めて聞くのですから。ただ法華経が数多くの御経文の中でも「キング・オブ・スートラ」「諸経の王様」という大切なことは、「偉大なブッダは知ってる」という方々が中心ですから知っている。

 そして、「chanting」=「何かを唱える」と言う事が、「meditation」=「瞑想」より素晴らしいと言う事は知っておられる。しかしながら、それでも法華経の中で説かれた予言をすべて体現された方が「極東(「Far East」」の島国、日本と言う所で生まれた、本当にそういう方がいらっしゃったということは知らない。当然、御題目も知らない。それを理屈で言ってもなかなか分からない。しかし、伝えさせてもらって、みんなで御題目をお唱えさせて頂いてですね、唱えた現地の方々から「本当に有難かった」「素晴らしかった」と。そう言ってくださる。私たちも、御題目のすごさを痛感して、そこに胸を打たれるんです。

 今回は、大御本尊を一幅、ずっとお供してインドに行かせていただきました。福岡御導師から、
「大御本尊をお供して頂きたい。長松師、妙深寺で護持している大御本尊があったら、お供して頂けないだろうか」
とお話をいただいて、宝庫をバァッと探させて頂いて。その中で一番表装などがしっかりしている大御本尊を手にしたのですけれども、その御染筆が梶本日颯上人で御座いました。しかも、護持者は清水日博上人。そのようなご因縁のある大御本尊だったのです。全く意図したわけでもないのに、このような御縁をいただく海外弘通の最前線に、ちょうど五十年前、開講百年の時にブラジルにお二人で行かれた方々の大御本尊が。ブラジルからの帰国後、私たちが今も歌っている奉賛歌のとおりの、
「今ぞ、世界を教化せん」「世界中に御題目を」
という御法門や論文を発表し続けられた日颯上人と日博上人の大御本尊。本当に本当に不思議なご縁を感じました。インドの各所でその大御本尊をお掛けして、それこそチベットのお坊さんから何から何まで全員、上行所伝の御題目をお唱えしたという、下種結縁のご奉公。御弘通の最前線のご奉公でした。

 御教歌を拝見させて頂いて、そういうところから開講一五〇年、五十年前、五十年後の私たちを、そのご信心を見つめ直させていただきたいと思います。御教歌を拝見致します。

 御教歌に「末法の 外未来まで題目を 弘め貫く 宗旨也けり」
 佛立開導日扇聖人お示しの御教歌でございます。

 誤解をしないでいただきたいのですが、「本門佛立宗を弘める」、あるいは「妙深寺を発展させる」とか、そうではない。それ以前に、上行所伝の御題目が人を救う、そのことがどれだけ分かっているか。分かっているようで、忘れているのではないか。御題目はお釈迦さまの御魂。私も御題目で助かる、助かった、有難い。きっとあなたの力にもなれる、と。御題目の尊さを感得すればするほど、一人でも多くの人に御題目を唱えさせたい、伝えたい、弘めたい。佛立宗のご信者に名を連ねているのであれば、せめてこの佛立信心の柱、宗旨を心に置く。御題目です。御題目を伝える。

 難しいことではありません。非常にシンプルなことです。御題目は有難いのですから、御題目をお伝えする。自分の生活の中で、それを実践する。この事をご信者は知りなさい。実践しなさい。このように感得させていただく御教歌でございます。

 再拝いたしますと、「末法の 外未来まで題目を 弘め貫く 宗旨なりけり」

  一年を締めくくるに当りまして、横浜の妙深寺のお寺では、「お助行に始まり、お助行に終わる」、そういう一年でした。森谷吏絵ちゃんの事、それは遥遠くの京都のご信者さんの事ですけれども、横浜のご信者さんでも末期の癌の方、脳腫瘍の方、あるいは甲状腺の癌、肺の癌、と言うような病気の方がたくさんいらっしゃったんですね。その方のために、朝参詣の後、ずっと通じて、寒参詣から夏期参詣、夏期参詣から今はずっとお助行にお助行で、とにかく教区や組や連合の垣根も全部越えて、お寺を挙げてお助行をさせて頂いてまいりました。その間、?島さんと言う方は、脳腫瘍から奇跡のお計らいを頂いて、九月の末、十月の始めに脳を開けた手術をしたんですけれども。十一月のこの長松寺にも、スリランカの方々お呼びしましたけれども、その時には立派にご奉公されておられました。

 あるいは、松本さんという方は、今年の寺報六月号に記事が掲載されていますが、肺ガンと診断され、手術を受けられましたが再発をしてしまって、首に子どものこぶしくらいの腫瘍が浮き上がっていて、痛みもひどく、抗癌剤だけで治療することになった。とにかく痛みがひどくて、病室の懐中御本尊をいただき、お供水にたよって「この痛みだけ、どうか取れるようにお願いします、お願いします」とご祈願された。ちょうど、その時にお鏡さんも患部に張って。すると、お鏡さんを張ってから180度全てが変わった。痛みが取れたんですね。寺報の記事のタイトルは「ガンの再発に諦めていましたが、今は早く仕事に就きたい」というものでしたが、秋には仕事が見つかり、体調も万全。ガンも克服。今月も御講にお参詣されて、「全く問題なくて、仕事が忙しすぎて。今度は同僚をお寺に連れてこなくちゃって思っています」って。

 甲状腺のちょうど後ろ側に、縦七センチ、直径三センチの腫瘍を患った小菅くみ子ちゃん。夏の夏期参詣の直後からでしたが、それこそお助行にお助行を重ねて、本人も開門参詣をして。青年会も、仕事や学校の帰りにお寺に集まってお助行をしてくれました。九月に手術日が決まって、手術の為の入院をしました。それから検査をして、いよいよ手術というところで、手術の前々日に緊急の手術停止。何故か。腫瘍が消えている。わずか一センチにまでなっている。このまま厳重観察を続けたい。手術はする必要がないという判断。九月の末になったら、もう三ミリ。もう腫瘍は見られない。一体なんだったのか。針を刺す事もしない方が良い、悪性であれば悪性の細胞が散る。いや癌じゃないんじゃないか。そういうお計らいを頂いた。

 瓜生さんも同じ。甲状腺の腫瘍で悪性の可能性が高いという診断で手術になりました。甲状腺を半分切除した。しかし、本人は決定してお供水を一日に10リットルいただかれた。お供水をこれほど飲むと身体が冷たくなる。冷えてくるんです。ですから、身体に毛布を巻いてお看経をされた。手術後、取り除いた細胞を病理検査に出しましたが、悪性ではなかった。信じられない、と。腫瘍の大きくなる速度などを考えても、それは考えられなかった。小菅さんと瓜生さんは同じ主治医の先生でしたが、その先生が「このままではヤブ医者って言われてしまう」って言われたほど。

 たくさんの方がお計らいを頂く中、鈴木ひさ子さんもまた肺がんを患われました。これは左肺に横幅五センチの腫瘍ですから、これは大変だと思ったんですけれど、いやいや今まで頂いているんだ、お助行だと言う事で、お寺を挙げてお助行をさせて頂いて、御供水を朝晩頂いてですね、左肺の三分の二を手術で切除しました。ところが、手術をした後も痛み止めを飲みなさいと言われても、今月の寺報にも書いてあるんですが、「痛み止めは飲まなければいけないんです」と主治医の先生に聞いた、と。先生は「なんで?」。「だって、先生。私痛くないんですけれど」そういう風に仰っている。しかも、リンパ節への転移、あるいは一ヶ月後の病理検査、すべてクリアで「転移はないでしょう」、と。もう大丈夫だとお医者さんは太鼓判を押してくださった。昨日、教区お講だったんですが、本人がお参詣して御礼の言上を。

 一昨日は、そのひさ子の娘さんが違う教区でご信心しているんですが、御礼参詣して「私は始めて御題目が有難いと実感しました。中でもお助行が何より有難いことを痛感しました。私も自分の家では御看経していました。だけど自分の為の、家族の為のご祈願でした。でも母がこういう病気になって、手術の日は手術室の前に待ち構えていようと思ったら、母が手術室に入る前に「あなた達」息子さん、娘さんが二人いらっしゃる。「あなた達、私が手術をしている間、病室の手術室の前で待っている事はないよ。お寺に行きなさい。お寺では手術中、ずっと皆が御看経してくれている。お寺に行ってあなた達も御題目を唱えなさい」と言ったので、私たちはお寺に行きました。本堂に入ると、本当にたくさんの人たちが母のためにお看経してくださっている。教区長の言われるままに本堂の前の方まで行ってお看経をさせていただきました。そして、手術中の六時間、ずっと他人の私の母の為に、皆が御題目を唱えてくださっている姿を見て、私は本当に今までなんだったんだろ。自分の為にだけ御題目を唱えていた。でも、と思った。こんなに有難い事は無いと始めてわかりました。お役をこれから頂きます。ご奉公させて頂きます」。言わなければ良いのに、そこで「では、お役をいただいてご奉公なさい」と教区長が言うと、「はい、分からないことがたくさんあるので、細かく教えて下さい」って言って下さるんです。これぞご信心だと思いました。そういうご挨拶を一昨日の泉教区と言う教区のお講席でご挨拶されていました。

 そうなんですね。私たちの頂いている御題目は、御仏の御魂。難しい事はわからないかもしれない。でも、この御題目をお唱えする事によって、御仏の御魂と私たち凡夫のその声とが振動して、その振動がピタッと一つになって見えざる大慈大悲の御手で、願う者が御利益を頂いている。本当に有難いことです。

 ただし、今年のお寺の締めくくりをどうするか。今お寺で皆で考えていますが、そうだ一言。「病気治しの信心ではない」ということです。当たり前ですが、御題目は尊いお力がある。御仏が私のすべての神の力。私のすべての法。自在の神力って、みなここにお入れになっていると仰っているんですよ。御題目は有難い。凡夫の願いも叶う。私たちの本当に深い罪障も業も能転して頂いて、お計らいを頂いた。昨日今日で病気になったんじゃない。いろんな業や罪障や、親代々の遺伝子なのか、あるいは不摂生なのか、食生活か、ストレスなのか。いろんな事がある。それを「能転」「能く転じて」もらっているんです。ですから、これほど有難いものはない。ただ、病気治しの信心ではないんですよ、佛立宗の信心は。じゃ何の信心か。何が宗旨なのか。この佛立宗は。

 「末法の外 未来まで題目を 弘め貫く 宗旨也けり」

  御題目は有難い。だけどそれを、自分の場所に留めてですね、その肺ガンの方の娘さんが言っているように、自分の家の中の為だけ、自分の家族の為だけ、自分が病気になった事だけじゃだめだ、と。

 今までごまかしごまかして中途半端な信心してきたのに、病気になったら驚いて「ああ、助けてください」。そして、助かったら「ああ、良かったな。ありがとうございます」。それでまた中途半端な信心に帰っていく。冗談じゃない。それを佛立宗の信心をしているとは言わないんです。宗旨が、「弘め貫く宗旨」ですから。

 このことをどのくらい、私たちは、信者の末席を汚している私たちが分かっているか。それを生活の中、人生の中で実践できるか。

 仏様の教えの根本、基本的な事ですが、それは皆思いますよ、「自分だけでも幸せにしてください」「自分だけでもいいから、こんな世の中だけど、せめて幸せになりたいです」って。思いますよね。ところが、結論から言えば、なれないんです、そういう人は。なれないんです。

 なんでか。自分の身近にいる大切な人が幸せでなければ、自分は幸せになれないからです。「自分だけ幸せにしてください」と言って、夫は隣で「うーっ」とうなっている。娘や息子はバカみたいになっていて、不幸でね。不幸のどん底に一緒にいる家族がなっていて、どうやって幸せになれますか。「では、自分の家族だけ」って。隣に不幸のどん底で、みんなも巻き込んでやるって思っている家族がいて、安心して生活できますか?幸せになれますか?。「では、せめてこの国だけ平和であれば良い」って、それで大丈夫だと思いますか?いつ隣の国に攻められるかも分からないって、それで幸せになれると思いますか?それは不可能、それでは幸せにはなれないんです。

 だから仏の教えの結論は「人を幸せにしたら、自分も幸せになれる」です。人が幸せになれば私も幸せになるんです。「あなたが幸せだから、私は幸せです」。これが結論です。誰かを幸せにしてあげる、そういう思いを持って生きることで、自分も家族も、本当の幸せになれる。それこそ、御仏の教えです。

 しかし、世の中みんな、自分だけが幸せになりたい。姉歯建築だがなんだか、もうずっと毎日毎日人のせいですわ。ヒューザーが悪いだの、姉歯が悪いだの、総合何とかが悪いだの。それは悪い者がいるんでしょうが、冗談じゃない。人のせいにしている間、そこに幸せは無いんです。

 ですから、佛立宗のご信心をしている私たちは、御題目にお力があるんですから、御仏の御魂ですよ。仏教の核。その御法さまの教えを頂いていると言うことで、「我も唱え、彼にも勧める」。御題目をお伝えして、御利益を頂いてもらうということを、日々させて頂かなくていけない。その事なんです。それを分かっているのか分かっていないのか。

 ご信者さん。すごく大切です。みんな御利益を頂いている人はね、心を御宝前に全部、お布施している人です。妙深寺でも、やっぱり中途半端にしている人は、御利益頂けていない。全部、心をご宝前にお布施して、「助けてください」といって御利益を頂く。素晴らしいですね。そうなるのも大事です。ただそれでもね、御利益を頂いてもまだ、半分なんですよ、佛立信心では。この御教歌の御心のこの宗旨。上行所伝の御題目を弘めるんだ、伝えるんだ、助けるんだと。我も唱え、人にも勧める。そこに行って始めて、ご信者ですね。本当にごの佛立信心を分かって、本門さんのご信者さんだと言える。

 インドに行きまして、いろんな細かい話はいろいろあるんですが、今回はこういうご弘通の最前線で御座いますでしょ。お金もらって行っているんではないですよ。私なんか有難いことにお教務さんですからね、お助行に行かせて頂く。お助行はすごく大事です。お助行に始まりお助行に終わる。でもなかなかね、忙し過ぎまして行けないことがあるんですよ。それで、御会式などに行くと交通費、御車料を頂いてしまって。御布施も頂いて、御供養も頂いて。忙しさを理由にして、御弘通の最前線に出れない。何かお布施やご供養をいただく場、お車料をいただく場にしか行けていないという気持ちがするんです。ご信者さんは違いますよね。

 しかし、今回は言い方は悪いのですが、海外弘通はほぼ全部自分の時間やお金を使いながら、成果の少ないかもしれない場に出ていくわけです。ご弘通の最前線です。本当に大変な勉強になる。下種結縁。縁のない人に御題目を伝えるご奉公です。本当に勉強になりました。

 そういう大切な体験をしてもらいたいと思って、今回は横浜から二十歳の中井君と言って、住職の顔も知らない若者を連れて行ったんです、成田空港ではじめて、「あっ、ご住職って、あなたでしたか」って。「知らんのか」って。そういう男の子です。

 もう一人は二十一歳の川本さん。生まれてすぐに大変な病気になりまして、聴力を失いました。ずっと補聴器を付けていて、声も「わたしわーっ」っていう、そういうことで少し言葉の出にくい子なんですが、インドに連れて行った。いろんな感動を持って帰ってきてくれたと思います。

 彼らが一番驚いていたのがムンバイ。インドの始めて降りた空港がムンバイなんです。ムンバイの空港に降りますとね、僕の子供がまだ三歳なんですが、三歳よりちょっと小さい子供が、外国人だと思うと来て「マネー、マネー」と寄って来るんですよ。「お金くれ」、と。物乞いなんです。遠巻きにお父さん達が立っているんですけれど、その小さい子が私たちの間を「マネー、マネー」って言いながら手を出してまわっていく。ガリガリに痩せているんです。「うぁーっ」と、僕は一年前のインドの事を思い出して「うぁー、また眼に焼きついてしまう。お金、あげたいな。どうしよう」と思いました。ガイドにもお金をあげてはいけないと書いてあるんですが。誰だって「あげたい」と思う。いや、そう思ったらあげた方が良いとも言うんです。

 そしたら、インド出身のご信者さんのラジさんがいますから、私たちに同行しています。そのラジさんが、パッパッパっと間に入って、「早く、車に乗ってください。バスに乗って」と言って、みんなバスに乗ったんです。二十歳の子と二十一歳の子にとっては猛烈な衝撃だったんです、その事が。中井君は法政大学の福祉学部に通っている。子供たちの福祉をしている。「うわーっ」と思った。だけどラジさんはインドの事情を全部知っていますから、ラジさんは「みなさん、聞いてください。あの後ろに立っていた男は、あの子のお父さんじゃないの。あの子はさらわれて来たんです。人間に生まれて一番最初に覚える言葉は「マネー」なんです。「マネーくれ。マネーくれ」それだけをさせられている。男たちが外人の側に行って、金くれと言ってもくれない。それじゃ、恐喝です。だから男たちは子供をさらってきて、まるでモンキーのように「金、もらって来い」。もし、外国人がお金を渡す。そしたら、そのお金は男が全部取り上げて、小さなクッキーだけパーっと渡して、子どもが死んだら終わりなの」。

 僕たち外国人がお金をあげますね。お金をあげると、「あぁ、やっぱりこの商売は良いや」となって、さらにインド各地で同じような事件が起きる。次から次に子どもをさらってきて、同じように商売をしていこう、と。また、不幸な子どもがいっぱい増える。数が多すぎて、政府も警察も手が付けられない。ラジさんは「だから、皆さん良く聞いてください。あの場でお金をあげる事が本当の善じゃないの、良い行いではないの。私たちは確信している。この真実の仏教が、インドに弘まって、本当に根底からあの子供たちが救える、と。確信している」と仰るんです。

 すごいなぁと思います。確かに、スリランカに行きますでしょ。スリランカに物乞いはいないんです。スリランカという国は、インドよりも経済は下です。ところが「マネー、マネー」と言い寄ってくる子供はいない。何が違うのか。みんな分かっている。仏教を守った国と、仏教を破壊した国の違いなんだ。きっとそうなんです。確信している。だから、この日本に来たラジさんもミランダさんもエカナヤケさんもナンダさんも、正しい仏の教えを伝え弘める事が、この国を良くする事だ。いたいけな子供たちを助ける事になるんだ、と確信してご奉公しているんですね。お金をあげる事、対処療法は善は善でも小善、小さい善行なんです。本当の善、大善、大きな善行は、この上行所伝の御題目を弘める事だと確信しているんですよ。

 「そうかぁ」。感動しました。もう一つはやっぱりチベット仏教の、インドの仏教寺院に行きましてですね、孤児院に行ったんです。学校と孤児院がつながっているんですが。その孤児院では、みんな一緒になって上行所伝の御題目を全員で御看経させて頂きました。チベットのお坊さんはびっくりしましてですね、「なんてあなた達は綺麗な、chanting、口唱をするんですか」と言うんですよ。「そう、綺麗かなぁ」。「僕達も唱える修行はしますけど、あんなに息が続かない。しかも、皆で声が合わない。あなたちはどのくらいお唱えするんですか」って。「僕たちは病気の人がいる時は、一時間も間も五時間も十時間も御看経をするんですよ」と言ったら、「えーっ」て仰っていました。

 しかも、最後の引き題目。「すばらしい」と。本当に綺麗に聞こえるそうです。そして、孤児院の一五〇人位、言わば、お金、物乞いをする子供と変わらない、お父さんがいないお母さんがいない家族もいない、そういう子たちを預かっている所ですよね。でも、子供たちはみんなで仏を敬っている。お話をお導師がした後には、子供たちが一斉に感謝の言葉を唱えるんです。バァーッと。「お導師、御法を説いて頂いてありがとうございました」って子供たちが言うんです。

 さらに、食堂に行きましてですね、一五〇人位バーっといますとね。僕の子供と同じくらい、三歳くらいの子が合掌して待っている。こうやって、机の上に。そうすると高学年の子が桶を担ぎながら低学年の子のお皿一つ一つにお食事を盛り付けてあげるんです。そして、子供たちもずっと待っています。そして、仏さまに「願くは、生々世々〜」と食前の祈りを捧げるのと同じように、仏さまに感謝してご飯食べはじめる。驚いたことに、高学年の子たちは全員、低学年の子たちが「食べられるかな」と後ろに立って見ているんです。ずっと、最後まで。そして、低学年の子が食べ終わったら、高学年の子たちがまた仏に感謝して食べ始める。

 日本と比べましてね、全部学年ごとに区切られて、テクニックみたいな勉強ばっかり教えられて、やっている日本の学校教育とは違うな。まず敬いが、敬いのある学校生活です。仏の教えの一番大事な所ですよ。敬いです。もし、「それは良いな」と、また対処療法のような形で日本でやってみてください。「ああそういう教育方法もいいね。日本の学校にもやろう」なんて言ってやってみても、高学年の子は「何でこんな事やらなきゃいけないんだよ」ってなるかもしれない。低学年の子供たちも「お兄ちゃん、早くしてよぉー。遅いなぁー」なんて言うかもしれない。敬いがないから。日本では、道徳とか宗教とか信仰とか、それを言ったら右だの左だのと言うばかりで、それを無くしてきたでしょう。大切に思ってもいない。まず、大人たちが思っていません。

 日本に帰って来ましてね、お迎えの人たちに、「一週間、何かあったか。大丈夫か」と聞いたら、「えぇ、一週間で子供が三人殺されました」って。「えっ」と聞き返すと、「一人は塾で包丁で首を刺されて。一人は行方不明です。一人は裸で野原に捨てられていました」と。なんだそれは。思いませんか。

 日本は豊かだ。日本は佛立宗が発展している、弘まっている。とんでもない。まだまだ大変ですよ、この国は。本当に子供たちを救う、いたいけな人たちを救う、弱い人たちを救う。どうやったら良いか。介護保険はこうです、何とかはこうです。法律を厳しくします。子どもの通学路が危ないから、通学路にサイレンの鳴る街灯を設置しました。塾の先生の面接の規定を厳しくしました。それは大事なこともあるけれど、結局は全部が対処療法ですよ。考えてみれば「小善」なんです、それは。

 本当に御利益を頂けるご信心、尊い御題目を頂いている佛立宗のご信者さんたちが、いま何をしなければいけないんですか。「今」ですよ。開講一五〇年迎えるにあたって。何を仰っているんですか、お祖師さま、開導聖人は。その事をしっかり根にすえて、せめて末席を汚してる私たちは、本門佛立宗を弘めるとか、お寺を大きくするとかそれ以前に、上行所伝の御題目を弘め伝える。その原点に立ち返らなくてはいけない。

 お祖師さまの御妙判を頂きますと
「世間に智者と仰がるる人人我も我も時機を知れり知れりと存ぜられげに候へども、小善を持ちて大善を打奉り、権経を以て実経を失ふとが(失)は小善還て大悪となる。薬変じて毒となる」(下山御消息)
かようにお諭し頂いている。

 小善に終始していてはダメなんです。小善に終始している間は、それは大悪になる事がある。薬変じて毒となるように。それで満足してしまう。それが賢いことだ、良いことだと思ってしまう。それで完結してしまう。違うんです。テレビに出ている評論家もコメンテーターも専門家も、分かっているようなことをいっているけれども、全く違う。時に、それは「小善」で、「大悪」なんです。

 ですから、ご信者は本当の「大善」を知りなさい。それは、私たちの宗旨なんです。

 「あっ、ご弘通こそ人を助ける道なんだ。この国を良くする道なんだ。家族を助ける道なんだ。他の世界を救う道なんだ」

 そこに帰ってこなければいけない。それが佛立開講一五〇年をお迎えさせて頂くご信者の一番大事な学ばなければいけない事です。宗旨ですから、それ以外はないでしょう。

 この御教歌を頂いて、各寺院の方々もより良い一年の締めくくり方、そして、志を立てた新年の迎え方をさせて頂くことが大事大切です。かように感得させて頂く御教歌でございます。

 御教歌に
 「末法の外 未来まで題目を 弘め貫く 宗旨也けり」




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