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《御教歌》
さきぬべき 花はいづれに おくれても  さくべきものと おもひしらるゝ
2007/4 高祖総講 コレイア教伯

 まず皆さんに御礼を申し上げます。妙深寺のご住職にもご協力いただきまして、ようやくブラジルも百周年のご奉公のスタートを切ることができました。日博上人、日爽上人、先師の方々もサンバを踊りながら大喜びだと思います。本当にありがとうございます。大変大きなご因縁を頂いており、百年の思いをとても一言で言い表すことはできません。

 いまブラジルの地図を配っていただきましたが、大変恥ずかしいです。こんな大きな国なのにまだお寺がポツポツとしか建っていません。ブラジルは二十七の州に分かれています。しかしいまはその内の三つの州にしかお寺がありません。残りの二十四の州にお寺ができるように、これから身を削ってご奉公させていただきたいと思います。それでこそ百周年のご奉公の報恩ができるものと確信をしております。

 今までは日本は遠く感じていたのですが、今はもう思いません。「ただいま」と言えるくらいです。去年の今頃も来させていただきました。一緒に来たブラジルのご信者さんは、みな一人が一人ずつ御礼のお教化をされています。本当にみんな大変に感動してブラジルに帰って来ました。そのとき私の妹も来ていたんですが、非常に理屈屋で、それまで言うことをあまり聞いてくれなかったのが、ここにお参りして、グランデ・ファミリアのビデオを見て泣いており、大改良して向こうに帰ってお教化を二戸。妹の旦那さんは如蓮寺の次長さんをされているのですが、今まで遠慮がちなご奉公だったのが、「次の局長はわしじゃ」と自分で決めて、一生懸命ご奉公をどされるようになった。全て皆さんのお陰でございます。

 五十年前に、ブラジルは一度、皆さんに救われており、五十年後にまた救われました。これから自分たちでどれだけできるかわかりませんが、とにかく頑張らせていただきます。

■人と関わる生き方

 さて、今日のお話は「人間」というテーマです。どこでも「人間」という花が咲きますように、お祈りを捧げるのが私たち本門佛立宗です。そして咲いたら散らせてはならないんです。私たちが回りにいる人々の見本にならなければならないのです。このような菩薩の誓いを立てさせていただいているのが私たちです。

 十年ほど前から、私はすごく「人間」ということにこだわっています。それだけが生きがいだと思っております。人のためにならないことは、やっても意味がない。何にも残らない。何でも「人」というものと関わり合いたいと、心の底から思っています。

 好きな言葉はいくつもありますが「人情」「人間」「人づくり」「人付き合い」「人生」などです。何でも「人」が付いていなければ面白くない。昔はモノの性能やメーカーなどにこだわったときもあったのですが、モノを相手にするのはもう飽きました。束縛されて自由が無い。コンピューターには今でも束縛されてますけど(笑)。ご奉公に使いますから仕方がありません。でもそれ以外はもう邪魔です。

 それは、本門佛立宗の教えでは「人法一箇」という教えを頂いているからです。「人と御法さまは一つになれる」これは佛立宗だけです。それ以外のものはそんなに必要では無い。法はあるんですね、もう頂いているんです。仏さまがそこにおられる。後は人だけそろえば、浄仏国土が成立します。

 ところがその「人」が問題です。時には「人でなし」「人騙し」「人殺し」などとなる場合が多々あります。でもだからこそ、そのうような人々を救わなければなりません。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と言います。中々勇気がいります。しかし、私たちはこの「勇気の無さ」を「賢さ」「忙しさ」「体裁」等でごまかしてしまうことがあります。そうではなく、とにかく人の中に飛び込む、入っていくことが、御仏の世界、ご信心の世界だと教えられています。

 しかし、そうするためには、「生き方」を変えなくてはなりません。「考え方」を変えるのではなく、「生き方」を変えるのです。これはだいぶ意味が違います。

■とにかく行動を起こす

 生き方を変えるということは、まず一つは、スタンバイの状態から脱出をすることです。それは、「仏さまと同じようにさせていただくこと」です。よく西洋人たちは、仏教といえば「瞑想」を連想します。しかし、仏さまが瞑想をされたのは、一生の間でほんのわずかでした。悟りを開かれてから五十年間、汗をかいて死ぬような思いでご弘通をして「歩かれた」のです。「瞑想」はスタンバイの状態です。行動に移さなければ生き方を変えることはできません。

 私の好きなことわざに、「犬も歩けば棒に当る」というのがあります。犬とは私のことです。どこで何をしてよいかわからない時も、とにかく出歩けば何とかなる。なっている。なってきたんです。御宝前が不思議と助けてくださるんです。

 どこに行ってもどうしたら良いかわからない時は、とにかく歩きながら御題目をお唱えすれば先が開けていく。何かの糸口がつかめます。座ってお看経をしている時でも、自分の動いている姿を想像してお看経します。そうやって因縁を作りまくるのです。そうすると、縁に触れて他の人に救われます。助けたり助けられたりという毎日を送ることができるようになります。

■することを明言する

 それから、ここで大切なのは「口に気を付ける」ということです。ただし、こういうふうに言うとおそらく皆さんは、「慎ましくする」というふうにとらえがちですが、これは逆です。口に気を付けると言うのは、黙っていないで「私は何々をします」と大きな声で言うことです。自分をさらさないと、いつまでたっても「しなければならないことをしないまま」です。「やりますよ」と言って初めて自分をさらけ出すことになります。それでしなければ大嘘つきです。ですから「菩薩の誓い」などがあるのです。その他にも「私はこれをしますぞ」と、御宝前に、ご主人に、奥さんに、言うことです。私は家内に言いました「今年から家を留守にしません」。今年こそと毎年言っています(笑)。でも、言ってるお蔭で、家にいる時でもサービスを良くしようと思いますから、だんだん良くなってきました。

 口を使う本門佛立宗です。南無妙法蓮華経と唱えるのにも口を使い、「これをします」というふうにも使い、いろいろな良い使い方をさせていただくことを、「口に気をつける」と言っています。

■「しなければならないこと」をする

 もう一つは、「私はこれから、これはもうしません」というのは、誓いにも懺悔にもなりません。よくあるんですが、クリチーバのお寺にいろいろな方が訪ねて来られたときに、「ここのお寺では何をしたら《いけない》のですか?」と聞いてきます。してはいけないことを「戒律」といって、キリスト教にもあるんですが、殺すな、嘘をつくな、浮気をするな、みんな「するな」なんです。それを先に聞いてきます。でも私は答えません。自分で考えたら分かるでしょ。私は「しなければならないこと」は言います。「してはいけないこと」を守っていても、幸せにはなれません。「しなければならないこと」を一生懸命していれば、せんでも良いことをしないですむんです。そんな暇はありませんから。

 ですから、戒律とかを気にするよりも、「しなければならないこと」を一生懸命させていただいておれば、後は自然にできて、良くなっていきます。「しなければならないこと」を《しない》のでは、御仏のお弟子にはなれません。

■正しい事相を心がける

 もう一つ好きな言葉があります。「事相」という言葉です。佛立宗では特にこれを教えられます。姿形に表すことだと教えらます。しかし、もう一つの捉え方ができます。姿形ですから「心内にあれば色外に現る」です。これは、いいことばかりを見せましょうということではありません。悪いことを見せないのも事相です。

 一昨日電車に乗りましたら、うしろのおばちゃんが悪口ばっかり言うんです。「うちの娘にあれをしてあげたのに三日たってもお礼を言ってこない」と。それで笑顔で家に帰って「ただいま」と言うんだろうかと私は思いながら、これは事相宗ではない。いらない心は見せない、姿形に顕さないことこそ事相です。

 人は良い部分を見せることは一生懸命努力しますが、悪いところが見えてしまわないように、罪障消滅をして元を消し去ることも大切です。悪口を言わない。媚びへつらわない。上慢、卑屈にならないなどと改良させていただくことができます。純粋な心をそういった形で表してこそ事相と頂いております。

 また、自分が正しいからといって優位に立って人を傷つけてはなりません。これも事相です。よくあるんです。自分は正しいからといって「この野郎!」と言ってしまったら、そこで終わりです。間違っています。特に上下関係の間柄ですとなおさらで、教えるよりも叱っている方に気持ちが行ってしまいがちです。聞いている方は、「何だ」と心で思っているんですよ。そこで、自分が正しいと思った時ほど相手に気を使って、相手を傷をつけないように心がけるのも、ご信心を頂いている私たちの心構えであるべきでしょう。

■心を通わせる

 相手に教えを伝えるときに、相手の心に入るためには、いろいろな要素があります。

・フェルナンドさん

 ある日、フェルナンドさんという方がお寺にお参りをされました。このフェルナンドさんは、大きな銀行で何億というお金を動かしている銀行マンです。その方は大変な理屈屋で、入信をされても「教えが良いから入信をしたが、お看経をするのは嫌い」と言ってました。「お看経をもっと短くして、御法門をもっと長くしてください」というくらいに。ところがちょうどこの前長松ご住職がブラジルに来られた時、その翌日に「御導師に秘密を打ち明けましょう。実は昨日から毎日三十分、お看経をあげるようになりました」と。「どうしてそういう気持ちになったんですか」と聞いたら、「今まで聞いた御法門が全てそこに集中したからだ」と言いました。そして自分と同じように営業や社長をしているご信者さんがいつも前に座って大きな声でお看経している姿を見て、「ああ自分も改良しなくてはいけないな」というので改良されたんです。誰かが教えてくれたんでしょう。誰かが彼の心の中に飛び込むことができたんでしょう。本人はお参りするうちにだんだんと心が開けていったんです。

・早く御利益を頂きたいと言う方

 もう一人、御利益を頂きたいとお寺に来られた方がいます。その方は「早く御利益を頂きたいのですが、いつ頂けるんでしょうか」…そうと聞かれて、一瞬返事に困ったんですが、「三つまでは即座に頂けます。入信をして、お寺にお参詣をして、御題目を唱えた。もう三つはすでにあなたは頂いているのです。三つ以上の場合はお看経をもっとあげなければいけませんよ」と答えました。時間の問題では無いんです。まだ頂いていませんと思っている間は駄目なんです。もう入った時から頂き始めているんだと思って、いつまでも頂き続けたいという気持ちでお唱えさせていただくから、御利益はいつまでも頂けるのです。

・ヒサトミさん

 もう一人、この方はまた素晴らしい方です。ヒサトミさんという方で、ロンドリーナという町におられます。この方は今七十歳を越えておられますが、お父さんの顔を知りません。五歳の時にお父さんが亡くなって、他の家族に拾われて育てられて今があるんです。大変な事業家で、ブラジルで大豆畑を一千ヘクタールも持っています。収穫するだけでも一週間かかるんだそうです。家にお参りしましたら御宝前が小さいんですね。でもそこにいつも収穫のお初をコップにとってお供えをしているんです。偉いですね。そのお蔭で毎年収穫ができると御宝前に感謝をされるのは良いのですが、「何か悩みはありませんか? 毎日一生これで終わりですか?」と聞いたら、あるんですと言われたんです。…人によってはもう死ぬのを待っているだけというような人も中にはいますけど(笑)。何ですかと聞くと「お父さんに会いたい」と言うんです。お父さんはというと、七十年前に亡くなっているんです。でも「よっしゃ引き受けます」と返事をしました。「どうするんですか」「まずお父さんを探しましょう。どこにいるんですか?」って聞いたら、「知りません」。名前しか知らない。どんな人生を送ってどこで死んだか、全然知らなかった。それで名前だけもらいまして、亡くなった年代を聞くとちょうど七十年前。七十年前に亡くなった方のお墓を調べると五つあったんです。ここ(妙深寺の隣の市営三ツ沢墓地)よりも十倍くらい広い墓地です。それを一つ一つ全部回って名前で墓場を探したんです。そしたら五つ目にあったんです。でも、行ったらもう墓地はありませんでした。五十年ほったらかしになると没収されるんですね。でも間違いなくあそこに埋められていたというので、そこの写真を撮って、お墓の帳簿のコピーもとって、それをヒサトミさんの所に持って行ったんです。持って行って渡してもね、そうしたらもう手に持った瞬間、「お父さん!!」って言って泣きはじめたんです。その翌日にサンパウロのお墓の土を採って、骨壷にお骨の代わりに入れて、新しいお墓を作ってお父さんを入れて、そして御宝前の家(御戒壇)も大きくされました。お父さんとの出会い、お父さんは死んでませんでしたね。あなたが殺していただけですよ。ほったらかしにしたら生きた人でも死んだも同然です。

 ご信心の力でもって、御利益を頂けば、生きながら生まれ変われるんです。よみがえるんです。それが南無妙法蓮華経の凄さだと、このヒサトミさんやフェルナンドさんなど、皆が分かってくださったんです。お互いを純粋に見つめ合う中から生まれた心で、これが一番の御利益と思っています。

■信じ《唱えて》こそ良くなる

 佛立宗の凄さは信じることではありません。皆さん聞かれたことあると思うんですが「あなたは神を信じますか?」とよく耳にしますよね。キリスト教国の世界では、皆そのように言います。だから本当は祈らなくてもいいんです。「信じる者は救われる」と教えられるから。佛立宗はそうは言いません。信じればこそ《唱える》のです。信じただけでは駄目なんです。声に出して「南無妙法蓮華経」と信唱してこそマコトなる教えなんです。ですから「信じる者は救われる」ではありません。信じるからこそ唱え、唱えるからこそお互いに救われるんです。そういう世界がマコトなるご信心の世界だと痛感しています。

 私も信じるだけの宗教をしていた時は全然ダメでした。いろんなものを信じていました。もう全部に裏切られて、本門佛立宗に入った時から、話が変わったんです。私たちの信心は小さな信心でも、唱えたら御利益は大きく帰ってくるんです。「南無妙法蓮華経」の声は国境を越えます。人種、文化を越えます。私たちのリミット(境界)を越えさせてくださる大変ありがたいお祈りなんです。御題目を唱えると、祈りが不思議に届く。それは本門佛立宗だけなんです。信じるだけではダメです。唱えるところに、はじめて御利益がいただけるのだと、このヒサトミさんや、御利益早く頂きたいと来られた方、そして銀行マンの方々から、学ばさせていただくことができました。

 この喜びを、今日は皆さんと分かち合いたかったです。別に難しいことは何も言いません。とにかく実践で共に御利益を頂きたいと思います。

 …遠く離れているようですが、…(涙)…心を一つにさせていただきたいと思います。ありがとうございました。(涙)




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