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《御教歌》
娑婆に入り 娑婆の衆生を 寂光へ  帰すは仏の 使ひ也けり


 御題「信者、如来の御使をつとむ」

 佛立開導日扇聖人、お示しの御教歌でございます。

 ご信心をさせていただく私たち。特に、菩薩行を目指している私たち。私自身、御利益を頂き、寂光に行ける、帰れるような生き方、ご信心をさせていただかなければならない。同時に、私の家族、私の友人、私の周りにいる人と共に、一緒に、御利益をいただき、寂光に行ける、帰れる、という、そういう考え方、生き方、信行ご奉公ができなければなりません、と。出来ているのか、出来ていないのか、そこを見据えて、改良させていただくことが大事と感得させていただく御教歌です。

 いま、寂光に帰るということをお話しいたしましたけれども、突き詰めて、はっきりと、厳しく教えを拝見すれば、中途半端なご信心前、特に菩薩の誓い、菩薩行を目指して生きていない、信心できていない、という人は、寂光に行くことが出来ない。寂光に帰ることが出来ない、と。

 「帰寂」と申しますけれども、寂光に帰れない。帰れないんです。

 「えっ」と思われる方もいられるかもしれませんが、せめて「御題目をお唱えし、少なくとも自分で御法、教えを求めて、自分以外の人のことをも思いやり、祈ってあげられる」という生き方や信心が出来ていなくて、どうして、「堂々と寂光に帰れる」なんて言えるか、と。

 私たちも時折ごっちゃになってしまいますけれども、亡くなった人を全て「帰寂」というのではないんです。「帰る」「寂光」と書きます。ご信心をしていない、謗法の方は、「命終」なんです。本当にしっかり言上すれば。「命終」で、私たちが、菩薩の誓いをして、お祖師さまの御弟子檀那として、「少なくともそれに近づくように生きてきた」「ご信心出来た」、で、寂光参拝の果報を頂戴する。これが「帰寂」です。

 ですから、お祖師さまが、仏さまが、ご注意下さっている、お叱りをいただくような、自分の生き方、いつも身勝手で、あるいは勝手な解釈で、謗法をしている、謗法を容認している、迷っているというような方は、御利益をいただけるのか、寂光に参拝できるのか。これは、出来ない。出来ずに、グルグルグルグルと、また苦しみの輪廻の中に帰っていく、と。

 世の中には「良い人」はたくさんおります。お医者さんや看護士さん、政治家や学校の先生。駅員さんから土木工事の作業員さん。素晴らしい方はたくさんいる。でも、その方々は、「帰寂」ではない。「命終」なんです。恐ろしいことです。

 私たちは、この御法さまの教えをいただいて、「私も寂光に帰る」、「あなたも一緒に寂光に帰れる」という生き方をしよう、と。だから、仏の使いであり、成仏の果報、寂光参拝の果報が頂戴できる。

 「あらゆる人を」、「寂光に帰す」という教えなんです。佛立宗の教えは。

 ところが、今申しましたとおり、寂光に帰ることは難しい。なぜなら、私たちには罪障というものがございます。何でも自分の都合の良いように解釈しようとする癖があります。良いことは自分の手柄、悪いことは人のせい、という癖があります。そういう生き方の積み重ね、「罪障」「悪い業」というものがある。

 大変失礼ですが、こうしてお参詣しているみなさんでも、この一生で誰にもいえない悪いこと、間違ったことをしてきた方がいるかもしれません。「実は僕は人を殺した」、という人がいるかもしれない。いや「私は一生ウソばっかりついて生きてきた」という人もいるかもしれません。「泥棒をした」という人もいるかもしれませんし、「裏切って、浮気をして、人をぶんなぐって、傷つけて生きてきた」、「今の地位を築いてきた」、という人があるかもしれません。

 この一生ですら、教えの筋から外れた、因果の道理から外れた生き方をしてきたということがあるかも知れません。

 あるいは、「いや、この一生の間には無い」「そんな覚えはない」と言っても、前世ではどうでしょうか。お祖師さまですら、「私は前世で法華経の行者を殺めたことがあったやも知れない」と思い起こされている。お祖師さまですら、そういう罪障感、前世観をお諭しなのですから、私たちだったら。

 前世、前々世、さかのぼったら、もっとたくさんの業や罪障があるだろう、と。それを、簡単に、ちょっとかじったような考え方ややり方で、「あっ、寂光参拝できるよね」「帰寂、よろしく御願いします」「法号、良いのください」と。そうは、ならない、と。

 そういう私たちです。少なからぬ罪障を抱えている。

 しかも、自己満足、自分勝手、マイペース。勝手解釈、欲深、頑固、ほれっぽくて、飽きっぽい。これ全部、僕のことのようですが。すぐ、人のせいにする。そういう生き方。これが染みついちゃっている。だから、「寂光参拝は難しいんだよ」、「帰寂というのは簡単ではないんだよ」、と。

 どうすれば良いか。それは、たった一つ。真摯に、素直正直に、「菩薩の誓い」、「菩薩の行を実践しましょう」と。

 御題目をお唱えし、御法を求め、人を思いやり、祈り、導こうと努める。自分も、寂光に行けるような生き方。あなたも。自分の奥さまも、お嫁さんも、お婿さんも、一緒に、良い行いをして、教えに叶って、「今生きている間も、死んだ後も、一緒に帰ろう」っていうことが出来ているか、どうかだ、と。もの凄い教えです。

 「娑婆に入り娑婆の衆生を寂光へ 帰すは仏の使ひ也けり」

 ここまでは、まだ前段で御座いまして。そういうご信心、み教えなんです。

 御教歌には「衆生」と御座いまして、み仏は「一切衆生」と仰っている。「ありとあらゆる人に」、と。

 私たちは、「自分も」「あらゆる人も」、「一緒に寂光に帰りましょう」、というご信心をしている。

 ところが、こういう御法の、尊い教えをいただきながら、なかなか実は自分から、器を小さくしてしまっている。

 「寂光にみんな帰れるんですよ」って言いながら、自分から狭くして、自分以外の人は関係ない。「家の中でもご信心は自分だけ」「もう家族には何も言っていません」「他の人なんて、難しいからダメ」「面倒だからダメ」、と。

 あるいは、世間体やら、色々なことを気にして、自分の気に入らない人、難しい人は「自分の部には来てもらいたくないわね」「私のお寺には来ないで」と。そうなってしまう。そうなることがある、と。それは、こういう御教歌をいただいている、ご信心をしている人の、考え方、生き方、ご信心の仕方ではないじゃないですか、と。そういうことを考えさせていただきたい。

 「あらゆる」「一切衆生へ」というご信心。それを、狭くしてやいないか、と。

 今日、どうしてもお話をさせていただきたいと思っているのは、妙深寺のホームページに書き込まれたお手紙のことです。公開の掲示板に堂々と張られた手紙、誰でも読める場所に書き込まれたお手紙。私は、それを拝見して、グッと、グゥッと、胸を締め付けられる思いがしました。

 こういう御教歌を頂いて、「ありとあらゆる人に」と教えていただいているのに、「これはダメだ」「器が小さくなっている」と。お寺も、教区も、部も班も、人間もみんな、器です。器が小さかったら何にも入りません。「これではダメだ」と。

 みなさんは、風俗店というのを知っているでしょうか。女性が身体を売って仕事をする、お金を稼ぐという場所です。最近は、趣味と実益を兼ねてされている方も居るかも知れませんが、多くの場合はいろんな事情を抱えて、望まないのに、そういう仕事をしなければならないという、普通じゃちょっと考えられないお仕事。そういう場所で働く方から、妙深寺の公開の掲示板にベタッと書かれた。

 ちょっと、それを読ませていただきたい。そして、考え、改良をしなければならない、と。

◆投稿者: paco 〔 2005/1/22 (土) 22:39:11 〕

初めまして。

とても活発なサイトですね。突然の書き込みで申し訳ありません。

新入信徒でまだまだですが、かなりのご利益を戴きました。きっかけは、旦那の借金の保証人になっていた為、多額の返済をするために、風俗で働き、体も、心も、ボロボロになりそうになったところを、救われました。

恥を忍んでいいますが、このような仕事をしていますと、「性病」というものをもらってしまい、婦人科での治療もありましたが、「御洪水」の力で、早期完治させて頂きました。唱え死にするつもりでお題目を上げ、御洪水を頂き、仕事と睡眠時間以外は、「御講」にも御参詣させて頂き、出来る限りのご奉公もさせて頂きました。今まで、なんども「死のう」と考えていましたが、御法様のお蔭で、生きる希望を与えられました。

しかし、私が「このような仕事をしている」とある信者さんに言ってしまったので、一部の方に「バイキン」扱いされました。とても辛く、退転も考えましたが、なんとかご奉公させて頂いてます。

私の様に、どうしても風俗で働かないといけなくなった女性は現代かなりいて、必死で頑張っている方がどれだけいることでしょう。佛立宗では「男女、職業の貴賎なく」との事ですよね?私も、一生この仕事をするつもりはありません。信心をしてから、無事に離婚も出来て、借金もあと数ヶ月で返済できます。人は、隠したい過去が一つでもあると思います。

どうぞ、私の様な方がお寺にいらしても馬鹿にしないで下さい!

現実は本当にきびしいです。

常に、身を下り、下種や教化、ご奉公に精進させて頂きます。ご住職様、管理人様、突然のコメント失礼いたしました。

近い内に、妙深寺にお礼の御参詣をさせて頂きます。本当にありがとうございました。

 こういうお手紙が、公開で、パッと張られた。私は、「こんなに苦しんでいる人でも、一生懸命ご信心して、死にそうなところを、御法さまの力で、生きてくれているんだ、有難いんだ」と心の底から感激した反面、お寺の中心で御奉公している人にチラッとそのお話をしたら、「バイキン扱いされた」と。「なにをやってるんだ」と思って、クーッとしたんです。「わかっていない」と。「何て器の小さな」と。そう思えば思うほど、なかなか返事が書けませんでした。

 そうしている間に、私が本当に驚いたのは、このpacoさんのお手紙に対して、妙深寺の兼子隆二くんが返事を書いてくれました。彼はまだ20才です。成人式で暴れている様なニュースがありましたが、同じ年齢の青年です。

 その20才の兼子くんが、まさに菩薩の誓いをしている妙深寺、その妙深寺の中で色々なエキスを吸収してご信心している青年と思える返事を書いてくれていて、私は心から、また感激しました。本当に有難かった。言葉を失うくらい感動しました。

 このお手紙も読ませていただきます。

◆投稿者: ryuji 〔 2005/1/26 (水) 01:11:46 〕

pacoさん、ありがとうございます。初めまして、妙深寺でご奉公させて頂いております兼子と申します。

まず何よりも、そのようなせきららなことを公の場で書き込まれたpacoさんの勇気を大変有り難く思います。ご利益談を聞かせて頂き、随喜させて頂きました。

僕は以前のご法門で「ご信心の尊さに気づかせて頂くきっかけはどんなことでもよい」と学ばせて頂きました。このご信心の素晴らしさ、凄まじさに気づかせて頂けることが何よりも有り難いですよね。

言上の際に、「下は地獄の炎の底までもみなこの光明に照らされて…」というところがあります。僕はいつも勇気が湧いてきます。本当にどんな人でも助かり、救われるご信心なのだなぁ。有難いなぁと感得させて頂きます。本当はお寺こそ、様々な方々が集う場所であると思っています。

きっとpacoさんのご利益談を聞きまして、勇気づけられる方が世界中に沢山いると思います。きっとたくさんの方の人生を素晴らしく変えられるきっかけになると思います。本当に苦しい経験をされた方こそ、きっといろいろな苦しみに悩まれている方の痛みや辛さを深く理解できるのだと思います。そのような方こそ素晴らしいですよ。

僕はどのようなお仕事にも大変な努力と我慢があると思います。それ相応の報いに耐えて、報酬があるのだと思います。ましてや言うに言えない事情があり、やむを得ず、望まない仕事に従事している方はたくさんいるのだと思います。そういう方々こそ、ご信心で苦しみから逃れさせて頂き、幸せになって頂きたいと思います。死のうと考えていた人が助かることこそが、この素晴らしいご信心の「本領発揮」ではないかと強く思います。本当に随喜させて頂きました。助かってよかったです。

自分勝手にダラダラと申し訳ありませんでした。本当にいろいろとあるかと思いますが、負けずに頑張って下さい。及ばずながら応援させて頂きます。ありがとうございます。

 こういうお手紙でした。如何でしょうか。みなさんはこういう返事が書けるでしょうか。

 まず、pacoさんのような方からのお手紙をいただいて、その壮絶なお言葉に対して、またこうして、本当に素直で、気取ってもいない、こんなに菩薩のような、そのままの、暖かい言葉が言えるでしょうか。

 私たちはうっかりすると、「ご信心してきました」「何十年もしてきました」「幹部です」「こういう教えのご信心や」というところにドカッとあぐらをかいて、どんどんどんどん自分勝手に、ご信心への門、寂光への門を狭くして、実は世間体を気にして、馬鹿なこと、小さな事でご信心を自分からダメにしてしまってやいないか。慈悲や思いやりを忘れて、慢心してはいないか。時には「寂光への道」を自分で塞いでしまっている。「あの人は気に入らない」「この人は気に入る」「この人はこっちにきなさい」「あの人はあっちへ行きなさい」と。

 全く人を救っていない。実は、娑婆を、娑婆世界で生きる人、人間を分かっていない、信心も、教えも忘れてしまっている、本当はご奉公など、菩薩行など出来ていない。そういう所が、あるのではないか、と。

 こういうことではダメだな。と。私は反省させていただきました。

 最近、彼女から返事がありました。普通、インターネットは、書いたら書きっぱなしというところです。そこを、彼女は兼子君の手紙に返事をしてくれた。それも紹介させてください。

◆投稿者: paco 〔 2005/1/31 (月) 22:17:40 〕

兼子様、心のこもった返信、大変有難く思います。

私は今回の事で、お金の有難さと恐ろしさを身をもって知りました。一千万の借金を、この体一貫で、返済を、何とか成し遂げようとしています。世間体、愛情、生活の安定を一度無くしてしまい、自殺を何度も考えました。しかし、ご信心のお陰で、心は無くさず、現実に立ち向かう力を与えて戴いています。

それでも風俗店の一室で一人待機していると、急に落ちて辛くなる事もあります。そんな時は、「妙講一座」や「如説修行抄」を読むとかなり救われた気持ちになります。「ああ有難や、まれに人身を得、適仏法にあへり 然らずば、生涯衣食の獄につながれ、名利の網にかかりて、いかでか六道のちまたを出む」という随喜文を拝すと涙がこみ上げてきます。

世の中の底辺にいても、人に軽視されても、着るもながあり、ご飯も食べれて、住む所を追われず、ご信心出来るなんて幸せじゃないの!?と自分にカツを入れる事が出来ます。私と同じ状況や、もっとひどい生活をしていて、ご信心とお出会い出来ず、不安定な状況を自力で生き抜いている人がどれだけいるのだろう?そんな人が、佛立宗の経力で幸せを掴んで欲しい!と腹の底から思えるようになりました。

人は同じ過ちは二度と繰り返してはいけない、苦しい時代の事は決して忘れてはいけないんだと。もし私がまた普通の生活に戻れ、順風満帆に暮らせていけても、地獄から這い上がれたご恩は忘れてはいけないのですね。

風俗店で働いていると、同僚の同じ境遇の女性達の明るさや優しさに励まされます。どんな状況にいても菩薩には出会えるのですね。

今、こうやってネットをしている内に、生活苦で夜逃げや一家心中しなければならない人達がどれだけいるのでしょう?とても暗い話で申し訳ございません。けど、私はこのような事から救われましたので、あえてこの貴重なスペースに書かせて頂きました。

妙深寺で「活かす信心、変わる人生」というお言葉を戴き、どんな状況でも困難から逃げず、ご奉公に精進させて頂く決定をしました。

どうか私の様な苦しみを経験している人が、これを読んで佛立宗のご信心で救われて欲しいという思いだけです。

他寺院の者なのに、私事を書かせて頂き本当に感謝します。妙深寺には、この様な生々しく、人が目を背けたい問題も受け入れる慈悲とパワーを感じさせられましたので…。

妙深寺の益々の隆昌発展を御祈願しています。

 以上が、やりとりの全てです。今でも掲示板に公開されています。

 「娑婆に入り娑婆の衆生を寂光へ 帰すは仏の使ひ也けり」

 「あらゆる人に」というご信心。「あらゆる人に」というご信心なのに、そこを忘れていると、ご信心が曲がる、ご信心が間違ってしまう。ご信心が、本当に社会の上から、この迷いの多い娑婆世界の中で、苦しみ、もがいて生きている人まで救っていく、ということを知らない、信じられないでしていると、こういうご奉公が出来ないんです。

 pacoさんが、「妙深寺で活かす信心、変わる人生」というお言葉を聞いて、「どんなに苦しくても私は負けないで生きていこうと思えた」と言ってくれている。これは妙深寺の高祖会でみんなで考えた言葉、「活かす信心、変わる人生」で一生懸命にご奉公した言葉ですが、こんなに苦しんで生きていた人に、私たちのメッセージが届いていた。

 しかも、この方は、「妙深寺には、この様な、生々しく、人が目を背けたい問題も受け入れる慈悲とパワーを感じさせられましたので」と言ってくれている。本当に有難い。私は、本当に、土下座して、pacoさんに頭を下げて、心からの御礼を云いたいくらいです。

 「本当にありがとう」「こんなことを言ってくれて」「教えていただきました」と。

 本門佛立宗、真実の佛教の、教えをいただいているお寺として、住職として、信者としては本望です。

 風俗店で働いていることを肯定するとか、そういう問題ではないんです。私たちの器の問題です。器を考えなければならない。

 どういう器をしているのか。本当に、「あらゆる人に」という教えを頂いて、ご信心できているのか、ご奉公できているのか、と。

 「御法門説いても物わかりの良い人」「こういう金額の御有志の出来る人」「あまり教務さんに悪い言葉を言わない人」などと。何だかんだ言って、どんどんどんどんと狭くなって、狭くして、「はい、こういう人だけこっちに入れるよ」「こういう人だけお寺に来て下さい」「私の部に入れてあげるわよ」と。冗談じゃない。

 私たちも器です。私たち人間は一つの器です。いや、みなさんの所属している教区も、部も、お寺も器なんです。

 ですから、ずっとこの御法門をさせていただきたい。妙深寺には12の教区があります。

 その中の一つ一つ、「三ツ沢教区の一部には、この様な、生々しく、人が目を背けたい問題も受け入れる慈悲とパワーを感じさせられました」「上星川教区の二部には、この様な、生々しく、人が目を背けたい問題も受け入れる慈悲とパワーを感じさせられましたので」「泉教区の三部には、この様な、生々しく、人が目を背けたい問題も受け入れる慈悲とパワーを感じさせられました」と言っていただけるようなご奉公をしなければならない。妙深寺には、「娑婆世界の、人が目を背けたくなるような、生々しい問題も、受け入れる慈悲とパワーを感じさせられた」「感じます」と。

 そして、まずはここから、みんなで、お折伏をしあい、そこから御祈願をし合い、御利益をいただけるか、どうか。

 よくよく、このことを考えさせていただきましょう。内に籠もっていてはダメなんです。自分一人、家の中で信心していてもダメです。自己満足ではダメなんです。この御教歌を頂いて、私も寂光に帰れる信心が出来ているかどうか。あなたも一緒に寂光に帰る。そうして、その「自分」「他人」という垣根を越えて、御本意に叶ったご奉公という。それが佛立信心です。

 どうか、この苦しみの娑婆世界の中で、苦しみもがいている人を、一人でも多くの人を寂光に帰す菩薩として、御仏の使いとして、その大きな意味、使命、教えを感じて、いただいて、自分の信心の器、人間の器、各教区・各部の器を広げて、御題目一筋に、信心改良、御本意に叶うご信心、菩薩行の実践をさせていただくことが肝心と、感得させていただく御教歌でございます。

「娑婆に入り娑婆の衆生を寂光へ 帰すは仏の使ひ也けり」




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