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《御教歌》
堪がたき 迷ひの欲の おこれるを  殺すは信の ちから也けり


 佛立開導日扇聖人、お示しの御教歌で御座います。

 信がなければ、信じる心がなければ、私たちは負けてしまう。信じる力、信心の力を知り、信心のある生き方をしなさいとお教えいただく御教歌です。

 御教歌を再拝いたします。「堪がたき 迷ひの欲の おこれるを 殺すは信の ちから也けり」

 耐え難い。耐え難い迷い、苦しみが、外側からの問題だけではなく、自分の内側から起こっているということを知らなければなりません。

 一見、豊かに見える私たちの国ですから、色々な誤魔化し方や、機の紛らわし方、逃げ方もありますが、よく考えてみると、人間の一生にはたくさんの困難や苦難、問題が起こるものです。

 しかも、それは外側から来て自分を苦しめる、耐え難い状況にしているのかというと、それだけではなくて、むしろ自分の内側から起こる、内側が引き起こしていることがある、と。

 人のせいにして、他人のせいにして生きていくことも出来ますが、それは結局は問題の先送り、あとで倍になってしっぺ返しが来ます。恨んでも、憎んでも、落ち込んでも、目を逸らしていても、自分から、自分の内側から起こってしまう問題の原因を何とかしませんと、本当の幸せ、本当に充実した人生、本当に心豊かに生きることは出来ません。

 お金でも無い。地位や名誉でもない。かといって身体が健康なだけでもダメです。本当の幸せは、もう少し違うところにあります。

 耳にしたことがあると思いますが、よく世間でも「迷えば凡夫、悟れば仏」といいます。

 「迷っていたら、いつまで経っても凡夫」、「凡夫」というのは「業が深くて、悪循環を繰り返す人」という意味です。

 そして、「悟れば仏」という。仏さまのようになりたい、なりたい、と思っているなら、悟らなければならない。悟ることが出来たら迷いの凡夫ではなくなる。苦しみや悲しみ、恨みや妬みから開放される、というのです。「迷えば凡夫、悟れば仏」

 しかし、悟ることなんて、簡単ではありませんね。

 数千年間、佛教の修行者は、この「悟る」ということを徹底的に考え、求めて、一生懸命にやってきたんです。ところが、なかなか人間の外から来る問題、内側から自分が引き起こす色々なことから逃れられない。やっぱり、どこから登ろうとしても、「迷えば凡夫」というところでウロウロとしてしまう。

 そこを、お祖師さまは、「御仏が説かれたのは『悟る』ではない。『信』である」と仰った。二千五百年前に、御仏が最晩年の八年間を費やして説かれた法華経で、仏さまはもう説かれている。「考えて考えて悟ろうと思っても、永遠にそこに到達できないだろう。正しい御法を『信じる』ということだけが、そこに到達できる唯一の道、方法である」

 「堪がたき 迷ひの欲の おこれるを 殺すは信の ちから也けり」

 分かりますか? 人生には、たくさんの不可欠な言葉、大切な言葉があります。一字で言えば、たとえば、「愛」。あるいは、「学」とか「金」とか「子」とか。しかし、私たちの人生で一番欠かせない言葉は、「信」です。

 「信の一字を詮と為す」とお祖師さまの御妙判でございます。『「信」という一字、たった一つの文字こそ、全ての大元です』とお諭し。

 あるいは、「信は道の源、功徳の母」とのお祖師さまの御妙判も御座います。
 「信こそ、道の源、功徳を生み出す母親である」

 元来、私たちは疑り深いですね。なぜですか。
 私たちは知っているんです。間違ったものを信じて、バカをみたり、騙されたりしたらイヤだ。そんな馬鹿なことはイヤだ。疑って、そしてチェックする。だから、騙されて不幸になることも少ない。

 確かに、何でもかんでも「信じれば救われる」というだけでは、それこそバカをみることもあります。不幸になってしまうこともある。だから、疑う。信じられない。

 しかし、この点もよく考えてみてください。

 疑いの心をずっと持って、愛している人と一緒にいられますか。夫婦をやっていられますか。一緒に仕事ができますか。

 浮気をしている、裏切ってるんじゃないか。そう思ったら夜も寝られない。友だちや同僚たちが、自分の悪口を言っているんじゃないか、自分をバカにしているんじゃないか、お金をだまし取ろうとしているんじゃないか。

 次々に疑って掛かっていたら、いつのまにか幸せに生きることが出来なくなって、騙されるのと同じくらい、いやそれ以上の苦しい生活になってしまう。寝ることも、落ち着くこともできなくなる。

 完全な、悪循環の人生、抜け出ることが出来ないような悪循環に入ってしまう人は、信のない、疑いで凝り固まった人、そういう生き方の方が多いのです。

 世間は、探偵を雇って、素行調査をして、自分の旦那や奥さんの浮気を調査するような時代です。しかも、それをテレビなんかで放送して、「ど〜なっているの」なんていうテレビ番組では「実際に浮気していた」なんてやるんですから、誰だって疑り深くなりますよ。「うちの亭主も大丈夫かしら」なんて。

 でも、お互いに信頼関係を築く、嘘のない生き方をするなんて当たり前ですが、どこまで行っても、「信は道の源、功徳の母」です。「信」がなければ、本当の豊かな人生はあり得ない。これが結論です。

 「堪がたき 迷ひの欲の おこれるを 殺すは信の ちから也けり」

 宗教や信仰の世界でも、今は商売でやってるお寺や神社もある。おかしな教祖についていったら、それこそ人生を台無しにしてしまう、なんていうこともあります。

 しかし、本当の宗教、本当の仏さまの教えは、そういうものではありません。人間は弱い。弱いから嘘をついたり、騙したりすることもあるかもしれませんが、御法さまはウソはつかない、あなたを騙したりしない。絶対に裏切ったりしないものです。

 ですから、人間にとって、一番幸せなことは、一番大切なことは、「本物の御仏の教え、真実の佛教、本物の宗教に出会う」ということ。そして、お出値いした正真正銘の御法、御本尊を、『信じる』『信』、本当に真心から敬い、「信じる」ということです。信じることが出来る、ということが一番大切であり、欠かせないこと。

 自分ではちょっと耐え難い、そういう迷い、苦しみ、欲が、人生には次々に起こってくるんです。その欲、迷いを『殺す』というスゴイ言葉でお示しですが、まさに『殺して』くれるのは、あなたの「信じる力」「ご信心の力」だとお示しなのです。

 分かりますか? 信じる生活、あなたは何を信じていますか。信じられますか。自分自身。いや、それは愚かなことです。それではダメです。

 私は、イタリアのご信者さんを前にご挨拶をしました。
 「私の家は、本門佛立宗の中でも、最も歴史の古い家です。僕で五代目の信者です。しかし、本門佛立宗の教えの中では、歴史も家柄も佛教への理解や勉強も大きな意味がありません。最も大切なことはピュアに信じるということなのです。イタリアの本門佛立宗は日本に比べて歴史は浅いですが、そのピュアな信心、信じる心を学びに来ました」と。

 佛立宗では、お坊さん、お教務さんでも、一番大切なのは「信心」なのです。

 今日は、スリランカからご信者さんが来られています。今日は、その方々から『信心』を学ばせていただく。日本は、豊かですし、みんなお金も持っていて、頭も良いのかも知れません。しかし、豊かで頭の良い分、疑い深く生活しているのでは幸せにはなれない。それが不幸のもとなのです。

 いいですか? 「疑っている間は準備中」なんです。「信じることが出来てから本番」なんです。「疑い」とは「チェック」であり、「信じる」とは「ドゥー」、実際の行動、そこから本番のスタートです。疑い深く生きている間は、まだ人生が始まっていないのと同じです。

 スリランカの方々のピュアな御法さまへのご信心。御題目を信じる気持ち。「南無妙法蓮華経は、なんて尊いのだろう」「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」「有難い」という、本当にピュアな信心。そこから、どれだけ心豊かに、晴れやかに生きているかを知らなければなりません。

 ラジさんは、2500年前に書かれた法華経の原典、サンスクリット語も話される。ですから、原典の法華経も読める。そのラジさんが、乳ガンになり、お教化をされ、御題目をお唱えして乳ガンが消えるという御利益をいただかれてから、法華経の原典を読んでもブッダの真意が御題目を信じて、唱えることだと確信できる、と仰っている。

 毎月の寺報で紹介されている方がたの体験談、御利益を読み返してみてください。御題目を信じて、唱えて、どれだけアッというような御利益が顕れるか。人生が変わるんです。それこそ、騙されたと思ってでも、毎日毎晩御題目をお唱えしてみてください。かならず御利益を実感する。

 いま、見ていただいたスリランカ支援のビデオ、私は作りながら、今も見ながら泣けて仕方がない。勿論、津波で被害に遭われた人の痛みや苦しみを見ても泣けてきますが、一番泣けるのは、あの災害の現場に行って一生懸命に頑張ってくれた妙深寺の若い子たちの姿をビデオで見ていると、泣けて泣けて仕方がないのです。よく頑張ってくれました。家を失った子たちの手を握りしめて立っていた女の子。男の子と遊んであげている姿。

 特に、あのビデオの中で子供と「イェー」って笑っていた友介くんは、今日もご奉公してくれていると思いますが、ほんの数年前には家の中で包丁を持って暴れていた子です。包丁を振り回して、ガラスを突き破り、血をダラダラ流して、部屋に閉じ籠もっていた。僕は、今でも目をつぶると、あの壮絶な家の中が浮かんできます。友介が暴れた日、はじめて友介と話をしました。その友介が、あの当時は何でも人のせいにして、ふさぎ込んで、何も信じられないといってイライラしていた友介が、ご信心に目覚めて、本当に自分から「信じる心」をもって、一歩一歩前に進んできた姿は、本当にそれこそ凄いことだと実感します。

 彼が、スリランカに行き、あの場所で、子供たちを抱きかかえて、走りまわっている姿を見て、僕は泣けました。むせぶように。本当に嬉しい。あの時、包丁を持っている友介の部屋に入って、刺されないで良かった(笑)。

 今回のスリランカのご信者さんを送迎する大きなマイクロバスを借りました。借りる手配をしてくれたのも、友介君でした。そして、先日お寺に来て、三万円を御有志してくれました。マイクロバスのお金を自分で出したい、と。御有志させてください、と。彼は、まだ二十一才です。仕事が見つからない、続かないといって悩んでいた時期もあった。でも、それも乗り越えて、あの支援、そしてこのご奉公、御有志。泣けて仕方がありません。これこそ、信の力です。

 どうか、これはどこか遠くの青年の良い話ではありません。信のある生活か、ない生活か。せっかく真実の大法、南無妙法蓮華経の御題目のご信心にお出値いしているのです。信じて、信じる心で、耐え難い迷い、苦しみを乗り越える。信がなければ、信じる心がなければ、私たちは負けてしまう。信じる力、信心の力を知り、信心のある生き方をしなさいとお教えいただく御教歌です。

 故に御教歌に。「堪がたき 迷ひの欲の おこれるを 殺すは信の ちから也けり」




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