TOP > 御法門 > となへよや 上行所伝の 題目に  秘事も口伝も 入った物かは


《御教歌》
となへよや 上行所伝の 題目に  秘事も口伝も 入った物かは
2009/3/20 春季総回向 御住職

 今年の年頭からお話をしておりますが、いよいよ大変な世の中を迎えております。みんなで一生懸命、心を強く、ご信心を立てて暮らしていかなければなりません。法華経の教えは、蓮華の教えですから、泥の中にあってなお美しい花を咲かせる、人々に元気を与えるような人間を目指していただきたいと思います。

 それでは御教歌を拝見いたします。
 となへよや 上行所伝の 題目に  秘事も口伝も 入った物かは

 この御教歌は、御題目口唱の中に、何をするよりも大切な功徳がある。その御題目口唱の功徳が彼方に届いて、現証が顕れる。御題目をお唱えしなさい。そこに全てが含まれますよ。そのことを知って、そして、唱えなさい。そうお教えいただく御教歌であります。

「秘事」「口伝」というのは、各々の宗門に伝わる祈祷や呪詛、護符のような類、その他の伝えられている教え、ということです。

 私たちがお唱えする「御題目」は、万法具足と申します。世にある法という法、御経という御経、神力という力、超能力だろうが霊能力だろうが、秘術、秘伝、どの国、どの地域、どの宗教に伝わる口伝も、全て「具足」、つまり「備わっている」「入っている」のです。

 それなのに、多くの人は、違うものをまぜこぜにして迷う。御題目を唱えず、あるいはそれに並べて、念仏を唱えてみたり、般若心経を唱えてみたり、違うものをやったりする。その方が効きそうだという。でもそれが実は不幸の原因になっている。届かない。助からない。ご回向にもご供養にもならないから、御題目一筋になることが大切とお教えいただきます。

 お祖師さま、日蓮聖人の御妙判(お言葉)に、
「この南無妙法蓮華経に、余事(他のこと)を交えば、ゆゆしき僻事(ひがごと)也」(上野殿御返事)
また、開導聖人の御指南に、
「たとい、その宗その門の秘事・口伝といえども、本師(仏さま)の経文に合わざれば皆人師の私(わたくし)の邪説也」(佛立要談)
とお示しで、御題目に混ぜものをしてはいけない、ゆゆしき心得違いであるぞ、と。また、いろいろな宗派がそれぞれの説を立てているが、それがもし仏教の根本、「仏さまの教え」に合わなかったら、それは人が勝手に作った邪説、間違った説である、とお示しです。

 さて、今日はお彼岸です。今日、この日は先祖を思い、亡くなった縁のある方を思い、お弔いをするとき、仏教の尊さを思い起こすときです。

 今日は、「御題目をお唱えすることが何よりのご回向になり、功徳になる。それは亡くなった方のためだけでなく、自分自身の人生をよりよくするものだ。他に混ぜるものや加えるものはないんだ」ということをお話ししたいと思います。

 「彼岸(ひがん)」と「此岸(しがん)」とは、亡くなった人の世界を「彼岸…あちらの岸」、現在私たちが住む世界を「此岸…こちらの岸」と言います。死なない人間は誰もいませんから、みんないつかは彼岸に行く。その、あちら側のために、今、こちら側でできることがあるということを知って、実践しなさいとみ仏は教えくだされているのです。

 あちら側。彼岸というと、私たちからは見えませんから、「遠くにある」と思う。しかし、実際は近い。見えないけれど、ここにある。だからこそ、こちら側に生きている人も、身近に影響を受けている。それで苦しむ人もいます。

 見える世界、見えない世界、それはハーバード大学理論物理学の教授、リサ・ランドール女史の示す多次元構造にも似ています。

 「西方極楽浄土」などといえば「彼岸」は「遠く」に感じてしまうが、真の宇宙の姿は私たちの身近にシャワーカーテンで仕切られたくらいの状態で、もっと大きな世界が「身近」にある。身近にある多次元の空間を「死後の世界」「霊の赴く先」と言い切るのは乱暴ですが、通常は「知覚」はできない世界が身近にあることには違いありません。そして、仏教では、彼岸と此岸は相互に関係していると考えます。

 その一つの顕著な、悪い例に世間でいう「霊障」のようなことがあります。彼岸からの影響で苦しむ人です。亡くなった縁のある人であっても、死んだらほったらかしで、誰も思い返さない、供養しない。それが「助けて」というような何らかのサイン、メッセージを送っていて、それを受け取って苦しむ。物事がうまくいかない。

 遠い「彼岸」に行ったはずの亡くなった方が、「此岸」に生きている人間に「なんらかの影響を与える」、こういうことは、信じられないかも知れませんが、現実にあるものなのです。

 深層心理学の世界的な科学者であるカール・ユングは、当時流行していた「降霊会」に二〇〇回以上参加して、それらの「ウソ」を見破ったほどの人です。そのユングの「オカルトの心理学」という本には、自分自身どうしても納得もできない、説明もつかない現象に遭遇したことが書かれている。

 ロンドンの古い屋敷で体験したこと。金縛りに遭い、廊下で衣をひきずる音が聞こえ、極めて奇妙な体験をした。彼はこの現象を科学者としてつぶさにレポートしています。彼だけではなく、同じ部屋に泊まったX博士も一緒の体験をした。その後、そこで亡くなった方が影響を及ぼしていたのではないかということが書かれています。

 いずれにしても、見える世界のことだけで生きていて、あちらの世界のことは全く知らない、死んだら終わりだ、信じないという人よりは、「人間には見えないものがあり、そうしたものとつながっている」と、見えない世界の大切さを思う人の方がマシです。しかし、単純に世間一般の「霊」の考え方に囚われていたり、何でも霊のせいにして済ますようなら唯物論者よりもタチが悪い。

 一般的な世間の人の考え、問題の見方、その対処、処方、薬、治療法は、正しい仏教とは異なる点が多い。間違った受け止め方をするのではなく、正しく受け止め、正しく解釈し、正しく対処するということが大切です。それが正しい仏教、私たちのご信心です。

 十六日の夜、あるご信者さんが京都の長松寺にお友だちをお連れになりました。この方は二十代の女性でしたが、話を聞いてみると、おじさんが亡くなったときから、おかしなことが続いているということでした。

 おじさんは一人身で、病気になってからお姉さんと彼女の二人がずっとお世話をしていたそうです。それで、おじさんが亡くなった後、真言宗のお寺でお通夜とお葬式をしたということですが、そのお通夜の最中にお姉さんの具合が悪くなり、身体が異様に重たくなって、頭痛とめまいがはじまり、お通夜を途中で退席した。その後、七日ごとの法要でもお経を聞くたびに苦しくなって、おかしくなってしまう。

 それで妹さんが心配になり、お友だちが本門佛立宗のご信者さんだったそうで、大阪のお寺にお連れして御題目をお唱えし、懐中御本尊をお借りして、ご回向をはじめた。それから、不思議とお姉さんの体調は回復していった。

 ところが、今月の十四日、こんどは妹さんの方に変な現象が現れてきた。夜中、一晩中うなされ、金縛りのように身体が動かなくなる。耳鳴りや身体の重たい感じも始まった。これは変だなと思って、もう一度本門佛立宗のご信心をしている友人に相談し、そして長松寺に来られた、ということでした。

 こうした方の抱える問題の見方、対処、お話の仕方を、世間の間違った考え方ではなく、正しい仏教の筋を伝えて、苦しみから抜け出していただかないといけない。こうした方は、実は長い間ずっと彼岸から人生に何らかの影響を受けて辛い経験をしている人が多いからです。

 実は、こうしたお話はよくございます。昨日の夕方にも、全く違うケースですが、同じようなお話を受けておりました。ですから、いろいろなケースがあると思いますが、変な考えにとらわれず、何とか正しい対処の仕方、お話の仕方を知って、そこから抜け出し、乗り越えるお手伝いができるようになっていただきたい。

 まず私たちは、そのご姉妹のようなお話を聞いても、「あぁ、それは霊のたたりだ」とか「うん、見えます、おじさんの霊が」とは言いません。「そういうこともある」という程度です。あちらの世界のことは、驚き、怯えることではなく、「知っている」というレベルで受け取る。仏教では単純な霊能力は禁じ手です。開導聖人も「霊感のある人」を誡められました。だから霊媒師のようなことをするのは、仏教でも佛立信心でもない。

 ご姉妹には「元来、感性の強い方ですね」と話しました。そして、「しかし、感性が強いということは幸せなことばかりではありません」と続けます。感性が強くても余計なものまで見えていたら不幸になる。人生という運転ができなくなる。危うくなる。最も大切なのは「では、どうするか」。それは「南無妙法蓮華経」とお唱えすることです。

 この「南無妙法蓮華経」の御題目というのは、仏教の究極の法、マントラです。「南無」という部分が似ているからと言って、「南無妙法蓮華経」を「南無阿弥陀仏」と同じように考えてはいけません。全く違う。本物の仏教は、仏や神の名前比べ、力比べということではありません。「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏」に対して祈っている。これでは、じゃあ「大日如来と釈迦牟尼仏は?」「毘盧遮那仏は?薬師如来は?」というようになり、西欧まで広げれば「では、ユダヤ教のヤハウェは?」「キリスト教のエホバは?」「イスラム教のアッラーは?」と、どれが一番力が強いだろうかと、力比べになってしまう。

 御題目は別次元です。御題目は「法」です。「なぜ、仏が生まれたか」「なぜ、神が生まれたか?」という、その奥の奥、根本に当たる「ダルマ」「法」です。諸仏諸天善神の出生の門。

 新約聖書に「ヨハネの福音書」というものがあります。そこには、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と書かれている。この「ことば」についてキリスト教徒は本当の意味を知らないはずです。でも仏教徒なら分かる。

 御題目は究極の法、それは「音」「声」「バイブレーション」です。最初にあった法は「ナムミョウホウレンゲキョウ」。声と声、音と音でシンフォニーをつくる。それが、彼岸にも此岸にも行き渡る。

 もう一つ、私は本当に凄いと思った体験があります。松本依子さんという方が、その方は、大変な問題を抱えておられて、お助行をさせていただいたんですが、終わって帰ってきたとたん、私は体がどうしようもなく重くなってバタンと倒れて眠り込んでしまった。それから十七時間くらいずっと寝続けて、全然記憶がない。起きたら次の日の夕方でした。それで起きて本堂に上がりお看経しようとしたんです。そうしたら、口の所を誰かの手でグッと押さえられたようになって、御題目が唱えられなくなったんです。「あ〜」しか言えない。こんなことは初めてだった。これは困ったなと思って、先住のところに行って「僕は何かに取り憑かれてしまったようです。御題目が唱えられなくなりました」と言ったら、先住は一言「おまえの信心が足りないからだ、バカ!」と一言。(笑)

 それで仕方なく本堂に戻ってきて、夕看経の当番だったので鑒座に座ってお看経を上げた。「あ〜」「あ〜」ばかりで御題目が出ないんです。それがずっと五十分くらい続きました。最後終わる直前で、ポンって取れて「南無妙法蓮華経、あっ」って唱えられたんです。そうしたらそれと同時に肩をポンポンと叩かれて、ビックリして飛び上がった。鑒座ですからね(笑)。普通、誰もお看経中に肩を叩きません。でも、それは越前さんだった。その時、もう一件お助行をしていた、行方不明の方が見つかったという連絡だった。しかも、松本さんと同じご病気の方だった。あの、同時のお計らいというか、不思議な現証は、もう鮮明に覚えています。

 御題目を唱えるということが、どれだけ力があって、見えない世界にまで行き届いて、それをグッと変えてくださるか、功徳を積ませていただいて、お計らいをいただくか、実体験として感じさせていただきました。その結論はやはり、先住が教えてくださった、「信心が足りないんだ、バカ」ということなんです。何を寄り道しているんだ、早く本堂に上がれ、とにかく御題目を唱えてみろ、ということなんです。

 世の中に「霊障」というものが確かにあるとしても、御題目を持ってるご信者さんは、「如風於空中・一切無障礙」。どんな障害があっても、風が空中で一切妨げがないように、御題目で障害をはらしていただける。風のように自由に、何ものにもとらわれない、霊のせいにもしない、本当に真っ直ぐな人間の生き方ができるようになる。変な護符も、お祓いも、御守りもいりません。秘術も俗説もいらない。それで霊は静まらない(笑)。自己満足のレベルです。

 とにかく、遠回りすることなく、とにかく実践で御題目をお唱えさせていただくことです。本当のご回向をさせていただき、晴れやかな人生を歩んでいただきたい。いま、霊障に悩んでいる人がいたら、伝えてください。御題目に全てが込められている。本当の自由を手にしてください。彼岸、此岸。亡くなられた方への感謝、供養をしっかりさせていただいて、人生をより幸せに。そのために、御題目を唱え重ねる、それ以外いらない、そこに全てがこめられている。とにかく、唱えなさい、とお示しただく御教歌です。




Copyrights(C) GITEN-Workshop all rights reserved.